対談 「今求められる『知足』の生き方」/メッセージの詳細ページ


文字サイズの変更

 


 

対談 「今求められる『知足』の生き方」

 

有馬頼底 (京都仏教会理事長 相国寺派管長)
堀場雅夫 (京都クオリア研究会 堀場製作所最高顧問)


日 時 : 2011年2月13日(火) 13時~17時

会 場 : 相国寺承天閣美術館2階会議室

於 「医療と宗教を考える研究会 公開シンポジウム」

 


 

対談 「今求められる『知足』の生き方」/image1


 

 


 

堀場

 

 私のような、世俗の世界にどっぷりつかっている人間と、有馬頼底さんと対談させることに非常にアンバランスを感じているのでありますが、両極端という意味ではおもしろい対比なのかもしれません。 私は、知足でない人の代表でありまして、知足ほどつまらんものはないとはいいませんが、わからず悩んでおりますので、そのあたりをお教え頂ければと思います。 

 

有馬

 

 知足は足るを知るということです。 このあとに常に富むと続きます。 常に豊かであるというのです。 自分の限界がわかる人は、本当に豊かであるということです。 過ぎたる事は望まない。 ちゃんと、自分が納得することが良いではないかということです。 だから、堀場さんなんかは、最も知足な人なのではないですか?

 

堀場

 

 そうですね、食べることも好きですし、肥満体なので、食べる方は足りています。 

 

 僕は確かに、知足というのは、修行をしないとその域に達しないとおもうのですが、私は修行なしに、知足を知った人間かもしれません。 というのは、世の中が戦争中は、命さえあったら何もいらない。 それこそ知足ですよね。 戦争中食べるものがなかったときに、ご飯がお腹いっぱい食べられたら、なんでもすると、これもある意味、知足だと思うので、そういう戦争体験をしていますので、別の意味で言いますと、知足という意味を知った人間と言えるかもしれません。 

 

有馬

 

 私は昭和8年の生まれで、戦争中に幼年時代を過ごし、青年になる前に両親が離婚しました。  親父は戦争で中国に行き、母の実家も子供は引き取らない。 そして小僧生活に入りました。 小僧生活は、そこにあるものを食べなければならない。 寺の山の近くには芋畑があって、そこに夜中に取りに行くんです。 そこにある藁で拭いて、それを食べて、今日まで生き延びたようなものです。 

 

堀場

 

 では、有馬さんも、特に修行されたわけでなく、知足を知られたというわけですね。 そういう環境にもまれたということですな。 

 

有馬

 

 まあ、そうです。 今日のお医者さんのお話でも、人間は死ぬときにどうするかという話がありましたが、仏教では生老病死といいますが、生・老・病までいって、不思議に死は極められない。 対本さんがいわれたように、「周死期学」というのが当然あっても良いと思います。 死を極めたという者はいない。 お医者さんが死を極めているかと言えばちがう。 死んでいないのだから。 

 

 私は、小僧時代から、葬式を何百とやってきました。 亡くなるとまず、寺の小僧が、枕経というのをやります。 まだ、死体がなにもされていない時に、お経を上げにいく。 田舎なので、そこに行く道のりがとても大変だった。 でも必死になって、枕経にいく。 なぜなら団子をくわせてくれるからで、それが食べたいがために行ったものです。 

 

堀場

 

 結構なお話です。 僕はお医者さんに、望むのは、死ぬときは、痛いのと苦しいのがいやなので、これだけはやめてほしいとお願いしている。 昔、僕たちが子供の時は、お医者さんは往診の時、人力車に乗ってこられた。 家の前に、人力車が停まっていたら、だいたい、誰か死ぬんだなあと思った。 そして、死ぬときに、お医者さんに看取ってもらって死ぬという。 昔は、お医者さんも少なかったので、看取ってもらって死んで行くなんてことは、幸せな方だった。 でも、今はお医者さんもたくさんいるし、いろんな機械をつけたりしますが、やっても死ぬときは死ぬので、やはり、痛いと嫌だし、苦しいと嫌だ。 これをやわらげるのが医者の役割と思います。 

 

 生きている間にしたいことをしていたら、死ぬときは、ぐずぐず言わなくて良い。 どうでしょうか?

 

有馬

 

 そうですね。 人間は自然死が一番じゃないですか。 

 

 私は、2人の師匠を送りました。 一人は、10日ぐらい前から、「私はぼつぼつ死ぬから」と言っておられまして、脈をとっても、何も問題なかったですが、わたしのことは、わたしが一番よく分かっていると。 そう言っていました。 それが、ある日ご飯を召し上がらない。 おかしいなと思っていたら、合掌され、「いや、ありがとう」といわれ、3日間、懇々とねむっておられたので、医者を呼びますと、いろんな器具をつけられました。 だいたい3日ぐらいあると、全国からいろんな弟子があつまるんです。 3日後、最後の弟子が来て、「管長さん!」と手を握って、少し目を開けられた後、すーっと、亡くなられました。 

 

堀場

 

 では、有馬さんが亡くなるときは大変ですね。 外国からも来られるので一週間は余裕を見てもらわないと。 ビザを取るのにも時間が掛かるかもしれない。 

 

有馬

 

 はい。 まあ、そんなふうにして送ったわけです。 私は今、知的障害者、障害児、特別養護老人ホームなど、4つの機関の理事長をしております。 特別養護老人ホームに行って思うのは、先ほども話がありました、「話を聞いてあげる」ということ。 中には、私が来ると聞くと、お化粧をして、着替える人もいるという。 

 

堀場

 

 そういう人には教えられますね。 実は私も、ひとつ、悩み事があるんです。 

 

 今、経済界、産業界では、グローバル化という事があります。 まあいえば、これは、世界戦争をやっているわけです。 一歩たりとも退くと、もう食うか食われるかの戦いです。 日本の産業では大きなニュースがありました。 新日本製鉄と住友金属工業が合併することです。 これはもう、食うか食われるかで、とにかく敵をやっつけなくてはならない。 まさに戦争の時と同じようなことをやっているわけですが、これは単純な話、己を知っていいかなあと思っていたら、一瞬にして撃ち殺される。 この辺の現実の社会情勢と、基本的な人間の生き方というのは、ものすごくギャップがあるわけです。 幸か不幸か、私はもう退いていますので、己を知るとか、おもしろおかしく言うことができるのですが、しかし、第一線にいる者は、まさに命を賭けた戦いをしている。 そして、現実と人間としての生き方との大きなギャップに、悩んでいる。 なかなかこの辺のところが、悟りを開くまでに至ってないのです。 

 

 近代西洋文明が、今や崩壊しつつある。 そういう社会と、一人一人の生き様というものを、誰がどこでどう助けるかということ。 アングロサクソンの一人一人は、敬虔なクリスチャンであったりして、「汝、敵を愛せよ」といっては教会に行き、「人を殺めるな」と言う説法を聞きながら、その帰りには、他の企業をぶっ潰しているわけです。 こういう矛盾が現実の世の中にあるということが、そして、どこが、だれが、どういうところから切り拓いていくかということが難しい問題なのです。 

 

有馬

 

 堀場さんは企業人だからそれでいいんですよ。 食うか食われるか、やるかやられるか。 ところが、一歩、企業を離れたときに、人間としてどうか。 

 

 仏教には戦争はありません。 同時多発テロで、ブッシュ前大統領がイラクを攻撃しましたが、あれは、復讐といえる。 仏教には復讐という言葉はない。 

 

 アニメで、手塚治虫さんの映画「仏陀」ができました。 5月に公開されるんですが、第一部は、お釈迦様が無情を感じて出家をされるまでなのです。 第二部、第三部まであるそうですが。 はじめから最後まで戦争の話がでてきます。 国同士の戦争で、死体がたくさん転がっている。 お釈迦様がその多くの死体の前を通るんです。 

 

 そして、お殿様にいいます。 「人を殺してはいけません」と。 すると、お殿様は言います。 「なぜだ。 それをしなければ、逆に殺される。 だからやるのだ。 」と。 この考えがあれば、永久に平和が来ません。 お釈迦様は、それを少年時代にすでに関知している。 だから大きくなって、仏教を開かれるわけですが。 相手をやらなければやられる。 食うか食われるか。 そういうことは、足るを知るならば、何で合併しなければならないか?ということになるわけです。 潰れたら潰れたで良いじゃないかと。 でも、潰れたら、何千人もの社員が路頭にまよう。 では、なんとしても生き残らなければならないという、その根本がまちがいなのです。 それをなくさなければならない。 

 

堀場

 

 それは、世界同時にみんながそう思えばいいけれど、日本だけがそういう気持ちになるなら、他の国は、「ごちそうさまでした」ということになり、そうなれば日本が沈んでします。 

 

有馬

 

 それを取り越し苦労というのです。 たとえば、仏教の立場で言うと、自我心をすべて除きなさいというのです。 自我心がぶつかると、必ず争いがおこる。 

 

堀場

 

 西洋の歴史をみても、争いは、宗教がからんでいることが多いですね。 

 

有馬

 

 宗教戦争がほとんどです。 ただ、一揆などはありますが、仏教は違います。 

 

堀場

 

 じゃあ、仏教が絶対的に有利に立たないといけないわけですね。 

 

有馬

 

 そう、これからの出番です。 私が外国によく行くのはそのためです。 中国には特に足を運んでいます。 

 

堀場

 

 宗教者が先頭にたって、どう普及するかということですね。 それにしても、僕は、仏教の経典というのは、まったく訳のわからないものなのです。 

 

有馬

 

 それはね、訓読するとします。 でも、訓読すると、ありがたみがない。 訳のわからないことを言う方が、ありがたいのです。 

 

堀場

 

 お経を誦む時は、テロップで流せというのです。 イタリアオペラを見るときのように。 でないと、ありがたいというより、しんきくさい。 今何を言ったかと、翻訳してほしいと。 死んだときに、訳の分からないお経を誦んでもらうより、この人は生前立派なことをして、こんな素晴らしい人だったと言ってもらうほうが格段良いと思う。 この点は、キリスト教は死んだときにやるので、ああいうシステムはわかりやすい。 

 

有馬

 

 われわれ、特に禅宗では引導を渡します。 生前のいろいろを書いてありますが、しかし、これは漢文ですから、叫んでいるようにしか聞こえないかもしれません。 それをわかりやすく、解説しないといけませんね。 やはり、訓読をするという、わかりやすく言うということが、必要ですね。 でも、私は、お葬式もそのものも、それは死者に対するものではないです。 遺族に対する儀式だと思っています。 ですから、遺族から、必ず質問があります。 初七日の意味とか、その他いろいろ。 

 

堀場

 

 引導をわたすというのは、本当は死ぬ前に渡すんですか?

 

有馬

 

 死ぬ前です。 「喝!」と言って、成仏するわけです。 

 

堀場

 

 じゃあ、お坊さんは、その人の死ぬ時期をよく知っていないとだめですね。 

 

有馬

 

 衆生無邊誓願度(四弘誓願)と、枕経で誦むのですが、誦み終わったあとに、すっと逝く。 それが、立派な和尚さんの仕事らしいです。 私はそんな経験はないですが。 「あなたはもう終わりだ、あちらへ行きなさい」と喝をするのです。 そして、飛んでいくのです。 

 

堀場

 

 死んでしまったものは、仕方がないということを、少し悟る必要はあるかもしれませんね。 生あることは、かならず死ぬと、子供の頃から思っていなければならないですね。 

 

有馬

 

 そうです。 私は元気ですねとよく言われますが、「死ぬまで生きてますよ」とよく言います。 

 

堀場

 

 私は正月に、生命保険に私の余命はいくらかと、いつも聞くのです。 、色々な生活パターンの中で、私は86歳ですが、あと何年生きる?と聞いたら、後4年ぐらいが、一番確率が高いそうで。 そうすると、その4年に、どういう生活をしたら良いかなあと、考えているわけです。 

 

 まあでも、最後は、「喝!」といって、飛ばして下さいよ。 

 


 

長谷川

 

 ありがとうございました。 「今、求められる知足の生き方」。 その一端をご自分の心の中に持って帰って頂けたらありがたいかと思います。 

 

 今日の「医療と宗教を考える研究会」では、終末期における問題点について一定の整理が出来たと思います。 そういうなかで、知足というテーマを推進していくために、どうしたらよいのか、そのご提案も頂きました。 、来年度にむけて、より具体的に、何をするのか、どういうメッセージを京都から発信していくのかを検討していきたいと思っております。 

 

 みなさまから頂いたアンケートを中間報告という形で発表させて頂きましたが、来年度は、より多くの意見やお考えをいただきながらカタチをつくっていきたいと考えております。 

 

 あちこちで、終末期を考える運動が生まれてきていますが、こんな立派なお坊さんもいらっしゃいますし、医者、経済人、市民もいらっしゃるのですから、これぞ京都と言われるような運動を進めていこうと思っています。 今後も引き続き、皆様方のお力を頂戴したいと思っております。 

 

 

 

 

Tweet 


前の画面に戻る