宗教都市 京都 ~ 無事であること
「禅僧は闇に紛れて去る」という。つまりは、死ぬ時は静かにはじめからいなかったかのように、今までの生きてきた分を誇らず、驕らずむしろ贅肉をそぎ落とすように、功名を払いのけ、充分なる素のままの私が素のままになくなってゆくだけのことなのだ。
「竹影掃堦塵不動」
(ちくえいかいをはらって ちりどうぜず)
この句のあとに「月穿潭底水無痕」(つきたんていをうがってみずあとなし)という句が続く。「堦(かい)」、いわゆる楼閣の階段、そのところに竹が生えていて、竹の影が階段に映る。風に吹かれて竹が揺れるたびに、その影があたかも階段を掃くように動く。しかし、影ですから、階段にたまっている塵は少しも動かない。また、月の光が水の深いところへ差し込んで、ちょうど水の底を穿っているように見えるけれども、水そのものには少しも痕跡が残らない。これは、いわゆる「行(ぎょう)じて行(ぎょう)ぜず」ということ。行じていながら、その跡をまったくとどめない。真に無心の境地。お釈迦様は、49年間教え続けて、「一字不説」、すなわち一字も説くことはなかった。まさに行じて、行ぜず。何ひとつ痕跡を残さなかった。なんとすがすがしい生涯か。ほんとうの「無事の人」とはこういう方をいう。
去年の暮れにブータン国王夫婦がはるばる京都までおいでになった。おふたりの和やかな笑顔はブータンの国土と人々そのものだった。15年前訪れた時は、連なる山々に道がなだらかに果てしなく続き、所々に民家があり、川では釣りさえも違法となり、いたる所生活の中に仏教が息づいている。夜は果てしない闇が広がり、朝は澄みきった空気を通して遠方の山々から清々しい風が渡って来る。幸福な人生とは無事であることだ。無事とは平々凡々と過ごす無事ではなくて、人に言えない努力を重ねた後に、ようやく獲得した無事、しみじみと何事もない事の有難さを喜び合う無事、そういう境地に立ちたいものだとつくづく思う。