第2回 医療と宗教を考える研究会
「死と隣りあわせで生きる価値観」
日 時: 2010年12月4日(土)13時~16時30分
会 場: 相国寺承天閣美術館2階会議室
【参加者】
北 堅吉(日本バプテスト病院 院長)
北園 文英(京都仏教会理事 圓通寺住職)
児玉 修(映像工房サンガ代表)
佐分 宗順(京都仏教会評議員 相国寺教学部長)
塩田 浩平(京都大学副学長)
泰井 俊造(薬師山病院院長)
田中 滋(龍谷大学 教授)
田辺 親男(親友会グループ会長)
津村 恵史(中外日報社論説委員長)
中西 豊子(高齢社会をよくする女性の会・京都代表)
中野 東禅(曹洞宗総合研究センター講師 龍宝寺住職)
中野 博美(啓信会理事長)
中村 仁一(「自分の死を考える集い」主宰「同和園」付属診療所所長)
長澤 香静(京都仏教会事務局長)
野口 雅滋(京都桂病院院長)
廣橋 隆(東京都宗教連盟事務局長)
藤田 慶子(あそかビハーラクリニック)
森 清顕(清水寺録事)
吉岡 亮(三菱京都病院 腫瘍内科副部長)
吉中 丈志(京都民医連中央病院院長)
渡部 隆夫(ワタベウエディング会長)
〔京都民医連中央病院〕
本井 真樹、西田 修
〔高齢社会をよくする女性の会・京都〕
大崎 由良、松島 慈児、那須 勝子、那須 陸男、氷室由美子、村岡 洋子
〔日本バプテスト病院〕
浜本 京子
〔バプテスト在宅ホスピス緩和ケアクリニック〕
渡辺 剛
〔三菱京都病院〕
辻 博子、榊原 勢津子、松尾三査子
■はじめに
長谷川
本日、第2回の研究会を開催することになりました。 いまほど、「人間とは」「如何に生きるべきか」が、問われている時代はないと思います。 京都仏教会と感激感動を与えるような都市をつくろうと組織した京都クオリア研究会が、「宗教都市・京都」を考えるという切り口から、この『医療と宗教を考える研究会』を開催しています。
今回も、これだけ幅広い分野の方々にお集まり頂きましたので、我々が直面している高齢社会にむけて、どのような取り組みが可能なのか?医療現場における課題とは何なのか?それを解決していく上で、地域は、家族は、そして宗教は、どんな役割を果たすことができるのか?ということについて、活発な議論が出来れば大変幸せに思います。
それでは、この開会にあたりまして、親友会グループ会長であり、京都経済同友会代表幹事の田辺親男さんにご挨拶頂きたいと思います。
■あいさつ
田辺親男 (親友会グループ会長)
ただいまご紹介頂きました田辺でございます。 本日は第三回の『医療と宗教を考える研究会』に、前回までとはまた違う、幅広い分野の方にお出で頂きましたことを、心から感謝申し上げます。
今日は、「死と隣り合わせにいる価値観」という形で、西村先生、山岡先生、戸松先生にお話をいただくということで、楽しみにしています。 ここにおられる方、それぞれ立場がちがう方なので、ぜひ、その立場の違いという中で、活発なご意見を交換して頂きたいと考えております。
また、2月には公開シンポジウムを予定しております。 京都仏教会と京都クオリア研究会が中心になって、宗教都市・京都、そして、よりよい感動を与えて、本当に生きていて、良い京都をつくっていこうと考えておりますので、どうぞ今日一日、充実した実りのある日となればいいなと考えております。 どうもありがとうございます。
■講演
(1) 死生観~個人の価値観と社会の価値観
西村周三氏 (国立社会保障・人口問題研究所所長)
1945(昭和20)年 京都市生まれ / 1969(昭和44)年 京都大学経済学部卒業。
横浜国立大学助教授、ハーバード大学非常勤研究員などを経て、1987(昭和62)年、京都大学経済学部教授。 2006(平成18)年、京都大学副学長。 2010(平成22)年10月から現職。 医療経済学分野の第一人者で、 「医療と福祉の経済システム」「超高齢社会と向きあう」「社会保障と経済 社会サービスと地域」などの著書多数。
ご紹介頂いた西村周三でございます。 最初に、私はこの10月から公務員になりましたもので、以下は「個人の見解であり、一公務員としての見解ではございません」と申しておきます。
「私の立場」
最初に少しお断りすることがございます。 私は、医療経済学を専門にしています。 そうすると、経済学者は、お金の事ばかり考えている人だと思われがちです。 私も、もちろん、お金の事も考える必要はあると思いますが、あらゆることをお金の事だけで解決するのはおかしいと思っています。 それは当たり前のことであると、ごく普通の考えをもっております。
しかし、もっと広い意味で言うと、実はこれは曹洞宗総合研究センターの中野東禅さんとお話をして、今回のこういう会は、「知足」~足るを知る~という言葉を一つのキーワードにしたいと話をずっとしてまいりましたが、この世の中が、なにもかもお金でものを考えがちになっているということは否定できないとも思っています。
実はその背後には経済学における哲学的な基礎があります。 それは個人主義です。 経済学は海外から日本に入ってきた学問ですが、今の日本の経済学も、これが支配しています。 どういうことかというと、それは「社会の幸せは個人の幸せの合計(総和)です」そして、「一人一人の幸せは、お一人お一人が考えることだから、それに対して、経済が余計な口出しをすることは良くない」という、そういう発想があります。
個人の価値観と社会の価値観
私の今日のタイトルは、『個人の価値観と社会の価値観』です。 個人の物の考え方と、社会がどのように考えているか。 宗教でいうと、欧米から入ってきた発想は、「一人一人の宗教観があり、一人一人の宗教観は犯すことが出来ないものですよ」という暗黙の考えがあります。 しかし、実際は違うわけで、宗教が成立したのは、人を説得することによって、教団というのは生まれてきたのです。 今日はそういう発想でやりたいと思うのです。
実は私は過去に、「まずいことをやってしまった」ということがあります。 10年ほど前に、ある方が、「あと10年したら、終末期の医療に、いまほどお金をかけることが出来なくなるのではないか?」というお話をされていました。 今が、ちょうどその10年後です。 そのとき、私はあまり深く考えずに「そうかもしれませんね。 」と答えてしましました。 そしたら、それをご覧になった数人の医師の方から、「それは現場を知らない意見だ」と言われました。 その後、私はいろいろ勉強して、次の2点が、私も曖昧であったということを気がつきました。
一番目、これから皆さんにご議論頂きたい点ですが、法的な問題、あるいは人権の問題です。 そういうものと、特に終末期の医療は、密接に関係しております。 現場のお医者さんは、お一人お一人、その場で、医療という本来自分の果たすべき仕事以外の、法的、あるいは患者さんの人権に苦慮しています。 たとえば、小さいときから、お医者さんが患者のことを知っているという場合と、いきなり入院してきた患者とでは対応は違います。 人権が大事だということは、お医者さんはご存じですが、それぞれに応じた患者の人権の尊重の仕方が違うということは当然であり、それでみなさん苦労されているということに気がつきました。 実はこれが、先ほど申したお医者さんからみると、「10年もしたら、終末期の医療にどんどんお金が掛かって、そんなお金を国は出せませんよ。 だから制限しますということになるのではないか?」という質問に対して、「そうかもしれませんね。 」と答えてしまった軽率な発言だったと悔いている点です
それから二番目は、かなり誤解があることです。 高齢者の医療費は日本で、合計で10兆円で、国民全体の3分の1と、かなり多い額なのですが、そのうちの終末期に使っているのは約1兆円、10分の1ぐらいです。 これが多いとみるか、少ないと見るか、これはまた、私どもの専門の経済の問題としていろいろ考えておりますが、多くの誤解は「終末にばかりに使っている」と思われている方が多いということ。 それは誤解だということをまずは知っておいて頂く必要があると思うのです。
今お手元に、「WEDGE」という雑誌のプリントをお配りいたしました。 「家で老いて、家で死ぬには~在宅サービスの充実を急げ~」と、こういう資料です。 誤解のないようにしていただきたいですが、私がこれと同じ考えを持っているというわけではございません。 これは、WEDGEの編集の方の考えです。
ここに「胃ろう」をとりあげ、「食べておいしいとおもえない人を長生きさせてよいのか」という問題提起をしています。 この考え方は、先ほどから申しております「人生観」の違いによると思います。 私が言いたいポイントは、これからの10年で医療の技術が進歩し、これは正に、「足るを知る」という議論と関係すると思うのですが、ひょっとしたら、胃ろうをつけて、あと10年ぐらい生きてたら、あるいはまたいいことがあるかもしれない、という考え方もあり得ると言うことです。 医療技術の進歩というのはそういう物かもしれません。
次のポイントは、ここに問題の記述をしている「家族」です。 今の胃ろうの例で申しましても、ご本人は、胃ろうをつけても、ほとんどお幸せではないような気がするのですが、実はこの問題はむしろ家族の問題なのです。 家族が、自分の親を生かせておくようにお医者さんにお願いする。 そうしないと、自分が自責の念にかられる。 一分一秒でも長生きさせることが親孝行であるような社会の価値観みたいなものがありますね。 それはそれで、大事なことですが、ひとりひとりの個別のケースによって、私はここまで行ったら、「宗教家の方に助けを請いたい」ということがあってもいいんじゃないかと思うのです。 そのときに、宗教家に事情を知ってもらって、「ご本人も望んでおられるようですから、胃ろうをつけない選択をされて、決しておかしくないですよ」という手助けをしてくれる人がいないかと、私は個人的に思うわけです。 そしてこれが、この会合をお願いした、ひとつの重要なきっかけです。
「家族」ですが、もちろん欧米でも家族は重要な役割を果たしておりますが、相対的には、日本の社会のほうが、家族の発言が大きなウェイトをしめているという印象があります。 しかし少なくとも、欧米では宗教家が大事な役割を果たしているという現実を知っておいた方がいいと思います。
「ステージごとの整理」
(1)親を看取るとき
(2)看取る場所選び
(3)自分が終末を迎えたとき
(4)残った人に対するグリーフケア
そこで、問題提起をさせて頂きたいと思います。 このあと、山岡先生、戸松先生のお話を頂くわけで、恐縮ですが、私がこのあとの議論の交通整理をさせて頂こうと思っています。 論点は大きく分けると以下の3つ。 細かく分けると4つぐらいのステージがあります。
(1)親を看取るとき
一番大きな問題は、これだと思います。 本人にとっての問題よりも、今、この社会に突きつけられているのは、家族に突きつけられていることだと理解しております。 自分の親が、いよいよというときに、お医者さんが「どうされますか」と聞かれる。 お医者さんによって相当違いますが、丁寧に説明してくれる人もいるし、医学的な話をたくさんしてくれるのですが、結局分からないケースもある。 わからないからとりあえず、「お願いします」と言ってしまう・・・。 これは、私の親のケースもそうでしたが、あとで考えて、あれはどういう意味だったのか?と。 そういう、非常に難しい医学的な話をお医者さんがされる。 それから、もちろん逆のケースもあります。 「どうせ患者さんはわからないから、私にまかせておきなさい」というタイプです。 そして、患者も家族もそれを期待しているということもございます。 しかし、世の中だんだん、それでは済まないとお医者さんが考えるようになり、それで家族に選択を迫るようになった。 これが、大多数の一番難しい問題なのです。
(2)看取る場所選び
もちろん(1)のことを考えつつ(2)を、というのが普通なのですが、なかなかそうはいかないですね。 場所を選ぶ時は、まだ(1)は考えていない。 考えること自体が不遜とされる。 在宅重視を強調する考えについては、医療界からも強い反論がございます。 なぜかというと、いかに家族の負担がいかに大変かということ。 実際問題は経済的負担も、そして介護の負担もとても大きいので、一概には在宅がすばらしいとは言えないわけです。 でもご本人にとっては、どうやら、各所のデータによると、「在宅がいい」という回答が圧倒的に多いです。 しかし、いざとなると、ご本人は家族のことを配慮して「病院に入れてください」という言い方をする方が多い。 これは、いつも私は冗談めいていうのですが、親は子供のことを考える。 子供は親のことを考える。 ところが話がずれてしまう・・ということがあります。 そういうときに、まわりの第三者で、一歩押して頂く方がいないか?という風に思うのです。
(3)自分が終末を迎えたとき
では自分の場合は、という問題。 今日、仏教会の方に場所も提供して頂いて、こんなことを申して恐縮ですが、実はお寺の怠慢があるのでは?とも思います。 昔は死ぬことが怖かった時代。 でも今は逆に、なかなか死ねない。 生老病死の「死」が怖いのではなく、「老」の方が怖いことになっているという話が現状としてあります。 ですから、終末期を迎えられた方に対して、どういう心のケアをするかということが、そういう方がおられるほうが必要ということを申しております。 できたら仏教の方がこれに関与して、私たちの最後の時のこころのケアにかかわってもらえないかと思うのです。
(4)「グリーフケア」
グリーフケアとは、特に残った方に対してのケアのことです。 たとえば、日本と韓国の葬式を比べてみますと、韓国の方は大声を出して泣きます。 日本人が見ると、もう少し、我慢できないのか、と思ってしまいますが、これは、周りの人が泣いてくれることによって、親族の苦しみを和らげるという機能があると私は思っております。 それぞれの国で、悲しみの表現の仕方、あるいは、悲しみを受容する方法が違います。
私は、日本の仏教界は、長い日本の歴史の中で、こういうことについては、とても得意だったと私は思っております。 もちろん、お葬式では、亡くなった方、そして家族の方に対する悲しみを癒すということを、ずいぶん関わってこられ、僕らが知らないような、いい智慧がたくさんあるものと想像しています。 ただ、悲しいことに、今、葬式自体が、あまりに儀式化しすぎていて、そういう状況にはなっていない。 やっぱり仏教界も、そういうところに働きかけて頂いて、ご家族に対するケアをどうするべきかを、考えるべきなのではないかと、思っております。
まとめ
これは私の個人的な意見であり、「違う」とおっしゃられるかもしれませんが、冒頭申したことを繰り返します。 ここで考える内容は、お一人お一人、違っていて良いことでございます。 あるいは、宗派によってちがっていてもいいし、お坊さん個人によって違っていてもいいし、家族によって違っていてもいい。 しかし、そういうお一人、お一人の考え方が、この社会は、個人主義をベースにしていなかったことがあります。 実はそういう面で、経済自身がある時期までよかったのです。 つまり、「周りが消費すれば、自分も消費しなくては」ということで、今までやってきたわけです。 日本もだんだん変わってきましたが、今までに関しては、やはり「みんながやるから、私も」という、周りを気にすることが多く、ある意味、悪い影響をもたらしたのではないだろうかと思います。
くどいようですが、1分1秒でも長生きしたいと思うことを否定いたしません。 そういうお考えは、とても人間らしい生き方と、個人的には思っております。 しかし、そういう考え方の人がいて、自分はこういう考えだ、まわりの考え方を知って、自分はこう思うと、相互の関係をこういう会を通じて話し合うことはできないでしょうか。
一例として、これも賛否両論あるとおもいますが、裁判員制度ということも一つのヒントになるのです。 たとえば、こういう話は、みんなお医者さんに、病院に任せておけばいいと思っていました。 ところが、裁判員のように、今まで、裁判官に任せておけばよかったのが、任せておけなくなったのと同じことです。 これは、いいかどうかは別として、裁判員に当たった人は、割と皆さん上手に関わっておられる。 それは、この終末期のことについても同じで、「お一人お一人が」という問題です。
実は、今、厚労省が「終末期懇談会」というのをやっております。 いずれ、植物状態になったらどうするかとか、わたしたちがいちいち意見を言わなければならなくなる。 「医学的な話なのでお医者さんにまかせておけばいい」という話でなくなってくるでしょう。
たとえば、さっきのこととは逆ですが、カトリック教会は、そんな簡単に死なせてはだめだということをおっしゃいます。 「最後は、死ぬんだからいいじゃないですか」っていう発想はしません。 そういう話ではありません。 そんなことを言ったら、お医者さんはOKを出してくれません。 むしろ、そこで、今、どういう状態で、本当に回復不可能なのかどうか、またリビングウィルということを書いたかどうか?いろんなことがみんな関係して、勉強しないといけないとおもいます。 これは、一部の方は、割と簡単に考えておられます。 「簡単に死なせてくれればいいのに・・・」と。 気持ちはわかりますが、そんな簡単な話ではないのです。
今、家族が崩壊しつつあります。 単身者が激増しています。 そういう世の中が変わっていく中で、地域の再生とか、他人同士がどんなふうに絡み合うか、ということ。 NHKの「てっぱん」という朝のドラマにも象徴されています。
私は、特に京都はお寺がたくさんあるので、そのお寺を使って、もう一度、地域社会の再生、あるいは、他人同士が関わるということがもっとできないかと、考えてやってきております。 そういうものと、終末期の医療というものをいろいろと関連づけながら、考えることができないかというふうに思っているわけです。
このあと、医学的な話を中心に、山岡先生にお話し頂きたいと思います。 よろしくお願いします。
(2) みんな、いちど死ぬ
山岡義生氏 (日本バプテスト連盟医療団理事長 京都大学名誉教授)
1939(昭和14)年、大阪府生まれ、1965(昭和40)年、京都大学医学部卒業。 静岡労災病院第2外科部長などを経て、1993(平成5)年、京都大学医学部教授。 同大学再生医科学研究所長、日本消化器外科学会会長、田附興風会医学研究所 北野病院院長などを歴任。 2009(平成21)年から現職。
山岡でございます。 実は、この会に前回参りましたのは、うちのチャプレンと一緒に来まして、少し、勉強させて頂くつもりでした。 みなさんの議論を聞いて、なるほどなぁと思っておりました。
我々の所はホスピスがありまして、在宅で看取りもしています。 また、キリスト教のホスピスとなっていますが、はたしてキリスト教だけで大丈夫なのだろうか、ということがあります。 と、いいますのは、患者様のほとんどは信者ではありませんし、職員もキリスト教の信者は15%だけです。
そうすると、職員の中でも、キリスト教と言っている割には、キリスト教的な考えがあるのかどうか。 また、キリスト教を少し嫌がっている、あるいは、無宗教と主張している患者に、我々が言う、「キリスト教的なアプローチ」で看取りの話をする、いわゆるパストラルケア、あるいはスピリチュアルケアというのが、満足していただけるのかどうかというのを、ここに来てお話を聞いて感じたものですから、ちょっとこれは、みなさんのご意見を聞きたいなと思い、前回、ここに出席されていた方にお手紙を出したところ、「あなたがしゃべりなさい」ということになりました。 僕自身はまだまだこれから勉強させて頂くつもりであったのですが。
医療の中の不思議な力
今日の内容に関しましては、私自身の考えも一部ありますけれども、ほとんどオリジナルではなく、あちらから、こちらからを自分でまとめたもので、引用文献はどこかと言われると、わからないものもありますので、それもお許しいただきたいと思います。
しかし、もっと広い意味で言うと、実はこれは曹洞宗総合研究センターの中野東禅さんとお話をして、今回のこういう会は、「知足」~足るを知る~という言葉を一つのキーワードにしたいと話をずっとしてまいりましたが、この世の中が、なにもかもお金でものを考えがちになっているということは否定できないとも思っています。
私はもともと肝臓外科の医者でして、結構厳しい、一般では手をつけないような進行した癌の手術もしていました。 ちょっとやりすぎかという手術もやってきました。 反省はしていないのですが、やはりそこまでいかないと、どこが限界かということがわからなかったのです。
京大で生体肝移植を始めた時の肝臓をとる係が私でして、結局、無傷の人にメスを入れるという事に対するストレスと、本当にそれでいいのかどうか、ということを悩みました。 でも親分がやれということなのでやったわけで、もし私が親分だったら、やったかどうかというと、またこれも悩むところなのです。
そういう様なことをしておりますと、肝臓の手術でも移植でも、厳しいものになればなるほど、私たち医者が一生懸命やったつもりでも、どうにもならないことが起こってきます。 大変な出血で手がつけられない。 あるいは管と管を縫おうと思っても、ぼろぼろで縫えない。 手術などの合併症で、どんな薬も効かない。 そんな局面もよくあるわけです。 諦めるわけにはいけませんので、ちょっと冷静になって手を止める。 一度お腹を閉じてみる。 あとは神頼み・・・と言うとおかしいのですが、もう仕方がないと思っている時に、不思議なことに、患者さんが治っていく。 説明できない力が患者さんに起こるということを経験しました。
それを超自然的な力と言うべきかは分かりませんが、究極に近い治療をされてきた先生ほど、そんな経験が多いと言われています。 このような話をしていますと、結構、皆さん驚かれることが多いです。 人が生きるという中には、そういう何かわからないものが、あるのではないかと思うのです。
最近の医療に対する批判
話はちょっと変わりまして、この20年位、日本の発達した医療に対して、多くの批判があります。 呼吸器をつけて延命して意味があるのかどうか。 先ほど出たように、胃ろうをつけてまで生かせる意味があるのかどうか。 あげればきりがないかもしれませんが、IT化が進んで、医者はコンピューターばかりを見て顔も見てくれないと。 いわんや検査では、体も触ってもらえない、手当もしてもらえない、というような、温かみのある医者が減ったという話があります。
【医学教育】
医学教育はいったいどうなっているのか?という話もよく出てきますけれども、これには私は少し言いたい事があります。 日本の初等教育から、高等教育までのやりかたが、マニュアルとか、あるいはガイドラインのようなものをマスターすることによって成績をつけて偏差値があがる。 偏差値の高い子は、「医学部に入ったらどうですか」とすすめられる指導をされてきました。 自分で考えて結論を出していくというようなやり方は慣れていないわけです。 ですから、私の意見としては、医学部の入学の資格には、子供の頃から、つがいの動物を飼って、そのつがいが、子供を産むところまでしっかり面倒をみた子しか、医学部の試験の資格がないようにしたらどうかと。 それが私の考え方です。
そんなふうに、命がどんなに大変か、世話をするのがどんなに大変か、死ぬことがどんなに悲しいかということを分かっていない子が医者になるのは、やはりまずいのではないか?というのが、私が思っているところです。 もっというと、専門馬鹿が出てきました。 「心臓は看られるが、胃は知らない」というのがよくあります。 もっとひどいのは、整形外科です。 指の関節は看られるけれども、腰痛はだめな医者が出てきています。 同じように、膝は看るけれども腰は看られないなど。 そういう専門馬鹿がでてきています。 一方、昔の先生はなんでもみてくれました。 そういう流れで、最近は、「総合診療科」が注目されています。 お年寄りは一つの病気ではなしに、いろんな病気をもっておられ、その全体をみてあげないといけません。 「私は心臓だけを看てあげます」という所には、行かなくなるというのが、高齢者が増えたときの大きな問題なのではないかと思います。 こういう事を、今、みんなが考えないといけないわけです。
【告知】
そして、がんの告知。 これはショックです。 本当の意味のインフォームド・コンセントを医者はできているのでしょうか。 また、医者にも問題がありますけれども、歴史的に、患者からの要求がつよいために、医者の方が、自分の責任でないことを明らかにするための予防線として、こういう方向に進んできたのもまちがいありません。 「あと何ヶ月の命です」と言われて大騒ぎになる。 これも本当は、簡単に数字を言えるものではありません。 医者の言うときは、すこしオーバーにいっておかないといけない。 それより早く死んだら、先生に非があるように言われるので、ちょっと短めの月を言っておくというのはよくありますね。 そしたら、よそに言ってみたら、その先生が言っているよりも長生き出来そうだから、あの先生より、こっちの方がいいのではないか?ということにもなっています。 非常に複雑な話です。
ただ、医者の方も問題があるかもしれませんが、患者さんの受け止め方というのも問題です。 その数字ばかりが一人歩きして、医者を変えてみたりとか、全然勘違った医療に移っていくことが、たまにあります。 癌の末期によくあるのは、「もうこれ以上の治療法はありません。 あとは、安らかな人生を楽しんでください。 」と、医者から言われたとします。 すると捨てられた風に思ってしまう。 しかし、こんな時、患者さんと医者がとことん顔をつきあわせて、本当にそうなのか、というところまで、やっておられるかどうかです。 医者にも問題があるかもしれませんが、患者さんも自分の体のことをもっと大事に考えたら、1対1で、いろんな納得できる説明を受けるべきだと思います。
【生きていることの最低条件】
患者さんからも、「死んだほうがまし」ということもよく言われますが、不治の病をもちながら、生活する最低の条件は、どこにおいたらよいか、ということも考えます。 食べることができて、排尿、排便ができて痛みがない。 そこまでだったらよいのではないでしょうか。 また、すこし運動ができるとか、気持ちの問題で安定できるか、学校や、職場、家族などに迷惑をかけていると思えないなど。 生き甲斐をもって充実した日が送ることができるか。 生きるための条件は、一人一人違うわけですから、一律にマニュアルを作って「ここまで」等という風なやり方は出来ないと思っています。 この際、本人がどのようにしたいかを確認する必要があります。 たとえ胃ろうをつけていても、ご自分の意志で生きている証を感じているならば、胃ろうはすべきだと思います。
【批判的な意見を述べる人の問題点】
次は、胃ろうが良くないと言っている人を含めて、批判している人はたくさんいますが、本当にそうでしょうか。 すこし私も文句を言いたいと思います。 患者さんの身になって医療すべきと言っている方がおられますが本当に正義を知っていられるのでしょうか。 正義は分かりませんが、代替医療が告知された寿命より長かったから、患者にとってそれは良かった、というような言い方をしている人があります。 しかしそれは、必ずしもイエスと言えないと思います。 医者はさっき言ったように、短めの寿命をいいますので、それよりも長く生きたからといって、この治療がいいと言われてもそれは、YESとはいえません。 しかも、誰がそれを計算したのか、誰が告知をしたのか。 また、聞いた人はそれを丸呑みにして、それより長かったからよかったという言い方は、ちょっと、僕としては、それでいいのかと聞きたいところです。
また、何もしなかった場合と比較して頂いて、やはり、科学的な事が加わってはじめてよかったと言ってもらいたいです。 最近、免疫療法などいろいろありますが、あのようなことも、みなさん、よかったよかったと言われるから、誤った宣伝や科学的に正確でない宣伝のために、多くの人が迷わされて、お金も掛かります。 ただ、市民的感覚から、現代の医学と代替治療を双方すすめている方もありますし、総合医療として進んでいっている方がおられます。 一方的なことを非難するのはよくないので、どこかで折り合いをつけないと仕方がないのではないのかなあと、思っているわけです。
患者の自立性を促す方法
いずれにしても、本人の意向をどのようにして聞き出すかは非常に難しいですが、日本人の多くは自分の意見をはっきり言うことを避ける人が多いですね。 とくに京都では、はっきり言ったらちょっと無粋と思われるものですから、「考えておきます」というような人が多いですが、せめて自分の命ぐらいはきっちり考えないといけないのではと思っています。 最近ではセカンドオピニオンというのがありますから、医療機関に聞く方法もありますので、十分利用されたらいいかと思いますが、それでも聞いたら悪く思われないかという配慮があるようです。 日常生活、会話の中で、家族や友人などと、生き方、死に方の話、死んだらこうしてほしいという話が出来るようになったらいいのではと思います。
15年ほど前の話ですが、75才の肝臓病の患者さんがいまして、再発を繰り返すものですから、ご本人は、ぐじぐじとされていた。 そこで奥さんが困り果てて、私の所に相談にこられた。 そのときに「ご主人に、いっぺん開き直り、遺書でも書く段取りをされてはいかがか」と提案しました。 するとパッと態度がかわり、自分の後をどうするのか、奥さんと旅行するとか・・というふう考えるようになられた。 こんな例も経験しています。 ただ、その開き直らせる方法というのが、誰がどうしたらいいのかというのが、非常に難しいところです。 結局、その方は3年後になくなられました。
スピリチュアルケアとパストラルケア
次は、全人的医療というものです。 これは、WHOでも言われているものですが、「スピリチュアルな問題を早期から正確にアセスメントし解決することにより、苦痛の予防と、軽減を図り生活の質を向上させるためのアプローチである」ということです。 言葉はいいのですが、このスピリチュアルというのが、一番難しいのです。 日本は癌の事ばかりを言いますが、それは癌に対する緩和ケアにお金が出るからです。 でも僕は、癌だけがスピリチュアルだと思いません。 スピリチュアルケアというのは、全ての病気にすべき物であるというふうに思っていたら、もうヨーロッパではすでに当たり前のことだったようです。 そのことも少しお話しようと思っています。 「みんないちど死ぬ」わけですから、そのときの為の準備として、あるいは、それを上手にお見送りするためにどうすべきか考えるべきなのです。
そこで、癌で説明するために使っている「全人的苦痛」(図↑)ですが、これを真ん中に置き、社会的苦痛、身体的苦痛、精神的苦痛、そしてスピリチュアルな苦痛というところが、これから考えなければならないところです。 これは、いろんな人が書いておられますが、魂が求めるニーズ(要求)が満たされずに痛みとして発生し、叫びとして表現する。 その叫びに、対応するのが、スピリチュアルケアと、一応考えています。
そしてこれは(図↓)、いろんなスピリチュアルケアの対象となる哲学的な物と、宗教的な物を分けて書きましたけれども、これは、窪寺先生が書いているものに集約されています。 このようなスピリチュアルなケアは、新しい物ではなくて、本来宗教そのものが、心を癒す役割があって、その点では昔から、病気を治すのは宗教家であった。 シャーマンなどがそうですね。 ヒマラヤの方に僕の弟子で医者として行ったものがいますが、それは向こうの偉い人は、絶対に西洋医学の医者に掛かってくれない。 まずシャーマンで事を済ませるのです。 それは、お金とか、いろんな意味でシャーマンのほうがいいとされる。 それに掛かれない様な人が、西洋の医者に掛かる、というのが、ヒマラヤの麓に行った者の話でした。
キリストも、たくさんの人を治しましたし、祇園精舎というのも、ブッダが建てた寺はホスピスの役割を果たし、日本でも、たくさんのお寺さんが、たくさんの命を救われたということになります。 命というのは、単に本当の病気だけでなく、魂を含めたサポートをしてこられたという風に思いますので、欧米では、ローマ帝国がキリスト教を国教としてからは、教会の働きの中に医療が含まれて、パストル(羊飼い)からキリストが自分をよく、「羊飼い」と言ったことから、「パストラルケア」という言葉が出来たといわれています。 まあパストラルケアという言葉としては、「宗教・信仰や信条、国民性、個性、価値観、習慣を尊重しながらその人と共にいて、その人がその人らしく生きるために同伴するケア」としていいのでないかと思います。
また、パストラルケア担当者の特性は「宗教の有無に関係なく、堅実な性格を持ち、自他のスピリチュアルな面を重要視し、それを育成するパーソナルな(固有な)信念、人生観、および世界観を持つ人であるべきである。 」・・ということ。 ちょっと大変だと思うんですけれども、そういうふうな訓練を受ければ出来るようになるのか、あるいは、もともと適していない人もいると思います。 ちょっと陰でズルをする人たちというのは、これは無理だとおもいます。 そういう意味で、誠実に物事を考えるというのが本人にないと、こういうケアは難しいのではということが、最近ますます思うようになっているところです。
まとめ ~提案~
私たちのバプテスト病院は1955年に出来ましたが、そのときの院長、サッター・ホワイトは「民族、宗教、社会的地位の差別なく、来院されるすべての人々に、できる限りの医療を行い、キリストの愛と福音を証する」と書きました。 まさに、パストラルケアを実行する信念で、病院を作ったのですね。 チャプレンが常駐していて、牧師室がある。 ホスピスもありますし、在宅ケアクリニックもあって、ホスピスでの看取りと、在宅での看取りをやっております。 で、そのサポートを、パストラルケアとして、牧師室がやっているのですが、最初に言いましたように、「それは、キリスト教の人だ」と思われてしまったときに、キリスト教でない人に、我々がそれをうまく対応できるのか?というのが、前回、ここに来たときに思ったところです。
ホスピスは、20ベッドあります。 去年から、在宅のホスピスもやって、今のところ、60%の人がお宅で亡くなっておられます。 それは、それなりにうまくいっていると思うのですが、そこで、精神的なサポート、「パストラルケア」を今後、どうやっていけばいいのかというところに、これから、我々がもっともっと考えていかなければならない。 まあ、牧師室があり、チャプレンがいるからいいじゃないかと、いうことでは済まされないことになってきているというのが、今の私の思いであります。
これからですね、京都の中でも龍谷大学では看取りの研究があったり、あるいは本願寺系でそういうホスピスをもっておられたり、そういうのは、宗教に関係があって、サポートというのはあるわけです。
緩和医療というのはいろんな病院で進みつつあるのですが、はっきりとパストラルケアを、スピリチュアルケアをどうやっているかと明言できるところは、そうはないと思います。
そこで、提案なのですが、京都におられる宗教家で、パストラルケアの実験を一緒にやってみませんか、というのが私のおこがましい提案なのです。 やはり、宗教を真剣に考え、生と死をいつも考えているような方のほうが、先ほど言った「適している人」というのは、生半可な哲学をかじったり、心理学を聞いてきたりなどどこかで講習を受けてきたというだけは、なかなか難しいかなというのが実際に思っているところです。 そういう意味では、京都におられる、そういう想いをもっておられる宗教家の方に、ご一緒して頂いて、議論をして、いいものが作れたらなあと思うのです。
最初から鳴り物入りでやってもうまくはいかないので、たとえば、バプテストの牧師室を中心として、ご一緒に議論できて、そして手始めにバプテストで実験してみるなどはいかがでしょうか。 キリスト教でない人にもパストラルケアをできることが、京都では可能ではないでしょうか。 京都でいろいろと施設があっても、それが本当に緩和になっているかということが、今後問われていくのだとおもうのです。 お坊さんにも、プロテスタントの人にも、それから神官さんにも、他の宗教の人も一緒になってやっていけたら。 京都中の緩和医療チームから、誰か適した人が出かけていってお話をしてあげる。 あるいは、傾聴してあげるという部分が、実るかもしれないと思っています。
(3) 死に寄り添う~海外の看取り事情
戸松義晴 (全日本仏教会事務総長)
1953(昭和28)年 東京都生まれ。 慶應義塾大学文学部卒業後、大正大学大学院文学研究科博士課程仏教学科浄土学コース修了。 1991(平成3)年、ハーバード大学神学校で神学修士取得。 留学中に出会ったティック・ナット・ハン師の「Engaged Buddhism」に感銘を受け、アーユス仏教国際協力ネットワークを設立、日本社会・仏教に意味のある「Engaged Buddhism」はなにかを探求。 「死への準備」教育と医学生への死生観教育に携わっている。 浄土宗心光院住職、大正大学非常勤講師、慶應義塾大学医学部非常勤講師などを務める。 「Never Die Alone」「仏教とターミナルケア――エイズホスピス寺院から学ぶもの――」など著書多数。
ただいまご紹介頂きました戸松です。 本日はこのような会にお声をかけていただきまして感謝いたします。 さきほどの西村先生のお話にもございましたが、私の立場上をはずれて個人の意見として申し上げますが、先生のおっしゃるとおり、「お寺の怠慢」という話も甘んじて受けるしかないと、正直に思っております。 また、このような話をこのままで終わらせないで、お寺もチャレンジをして、私どもも、少しでも関わりを見いだしていければと思います。
日本の終末期における医療制度の問題点
今日は、発表というより私が過去5年間、浄土宗総合研究所で、death & dying project=「死への準備」というプロジェクトを行っておりまして、その紹介をします。 研究会は海外からの研究者、実践者をお招きして、またあるいは私共が調査に訪問しています。 日本の医療の現状について、少し古いデータですけれどもこちらをごらんください。
政府が医療制度改革を行い、第三次医療の急性期の病院のベッドをなるべくいつも空けるようとしています。 表をみると、千人あたりの病床数が日本が特出して多く、医師数が少なく、看護職員も少なく、そして平均在院日数が長いことが分かります。 こういう事をもとに、政府は医療制度改革を行って、今があるかと思います。
これが平成18年度の医療制度改革の時の政府案です。
これで私共が注目しておりますのは、今、「非常に患者の立場を尊重した」とか「患者の選択を通じて」ということを言っていますが、ある意味でいうと、自分の決めたことは自分で責任をもってくださいということです。 また、いろんなアンケート調査を見ますと、「どこで亡くなりたいですか?」という質問に、最初はみなさん、「家に帰って死にたい」といいます。 でも、そのあとの調査によると、「家で本当に亡くなることができますか?」と聞くと、多くの方は「それはやはり難しいと思う」と言うのです。 これが、政府が、「みなさんご自宅で亡くなりたいと言っている」として、在宅で亡くなることをすすめていこうという理由かと思います。 それは一番、経済的な理由が大きいかと思います。
↑それからこちらの、EBM=Evidence Based Spirituality、「根拠に基づいた精神性」ですが、この根拠というのは、科学的根拠ということです。 通常、病院にいくと、血液検査、レントゲン、MRI・・・と、そういうものに基づいて、治療を選択していくことになってきています。
実は、慶応病院でも非常に人気のある乳癌の専門医で、患者さん一人に30分ほど話を聞いている方がいます。 患者さんも、噂を聞いてやってくる人が多い。 しかしその方は病院からすると、点数が保険のレセプトが出なくて、時間がかかってけしからんという、病院のなかでは立場が悪いという現状があるようです。
医療現場の問題点は、先生方がよくご存じだと思いますが、延命の為の医療行為を開始しないこと、あるいは、実際に延命行為を始めてどこで中止ができるのかについて、これらはまだ法律がきちんと整備されておりません。 だから、刑事訴訟法で、訴訟がおこされないことというのが、一番の関心事となってしまっているのです。
それから、日本では終末期医療の体制づくりができていないということも課題です。 これは僧侶も同じで、専門家として似ているのは、医師、看護師、医療従事者や介護職員に対する、卒前卒後教育、生涯研修プログラムはあるのですが、あまり機能していないことがあるかと思います。
また、私が2008年にアイルランドで行われた「Presence & Compassion」 という国際会議に出席して驚いたのは、約600人の参加者があったのですが、その95%は医療従事者だったことです。 やっている内容は、「リンパ」というチベット系の団体が行っているものでしたが、仏教の実践者、特に、zen meditationの実践者の医療従事者の方たちが多く参加していました。 ただし、そこには宗教の名前はありません。 キリスト教の方も、ほかの宗教の方も個別の宗教の名前は出しません。 ただ、その宗教による実践をすることによって、どういう科学的な効果があるのか、たとえば、胃ろうの症状の改善はじめ、どういう効果があるのかという具体例、また、神経にどういう作用があるかなどを、20年間研究されている方たちが集まって発表がありました。 このように、ヨーロッパやアメリカでは、スピリチュアルケアは、仏教界や宗教界の中だけではなく、医療従事者と協働することで、同じ言語で、同じテーブルの上で話ができるということが重要とされてきている。 そういうことが、起こっているのです。
海外の看取りの事例 (ここから写真説明)
Maitri Hospice San Francisco (マイトリホスピス / サンフランシスコ)
アメリカで中心になっているのは、僧侶や宗教者が直接やるのではなく、宗教のコミュニティがボランティアで行うことが普通です。 ここは、サンフランシスコのマイトリホスピスという、エイズにかかった人たち専門のところです。 宗教者、チャプレンの方も数人おりますが、あくまでも中心は、地域のボランティアの方が行っています。 仏教の禅センターから始まっておりますが、宗教は一切問わないのです。
University of Munich Hospital Interdisciplinary Center for Palliative Medicine
(ミュンヘン大学総合病院 緩和医療 異分野提供センター)
こちらがミュンヘン大学総合病院のホスピス病棟です。 基本的に、部屋は患者さん一人にひとつで、病室からはテラスにも出られるようになっています。 一番重要視しているところは、場所です。 必ず、自然のキレイな景色があって、その中でホスピスを運営していくということにプライオリティをおいている。 座っているだけで心安らぐような場所を選択しています。
Rigpa Germany Main Temple/Berlin (ドイツ リンパ寺/ベルリン)
これは、ベルリンにある、リンパのお寺です。 今、非常に伸びているお寺で、キリスト教の教会に行く方が減っている中、日曜に部屋には入りきれないほどの人気で、1日に3回サービスをやっています。
ここでは、スピリチュアルケアをする方のトレーニングもしておりまして、今、ホスピスを建設途中です。 先ほどのミュンヘン大学の医師の方が中心になって、スピリチュアルケアの重要さを説いて、科学的根拠を示し、病院の中で位置づけてきた。 ここに写っている方は小児科の医師で、今、病院をやめて3年間修行し、こういうプログラムを立ち上げて、これからドイツ全土に拡げていこうとされています。
日本にはチャプレンと言う言葉があまり浸透していませんが、アメリカでも、ドイツでも、チャプレンと普通の牧師さんは違っております。 やはり、クリニカルパストラルエデュケーションといいますか、そういう専門の講座を受けていない牧師さんには、とても難しい、またそういう意識が出ないということもあるのかもしれません。
チャプレンの役割というのは、布教・説法から、「寄り添うこと」「気づく事」「聴く」への活動の変化。 これは、キリスト教の牧師さんでもお坊さんでも、寄り添うこと、人の話を聞くことが足りなくて、バイブルが出てきたり、経典が出てきたりということが多く、それではお願いしづらいという話がありました。
Christine Longaker (Rigpaの終末期および心のケア教育プログラムを立ち上げる。 アメリカのコロラド州・ナロパ仏教大学と大学院の「観想的終末期ケア」が資格講座を設立。 初代教官。 )
この方が、アメリカのナロパ仏教大学と大学院で、「観想的終末期ケア」の臨床資格という、ちゃんと国で認められた講座を仏教系で作られました。 ドイツ、フランス、アイルランドでも中心になって行っておられます。 アメリカの仏教系のチャプレンで、スーパーバイザーとして、資格を出せる方が今4人おられます。
現在、IBS(Institute Buddhist Studies)とナロッパ大学が、仏教者の臨床宗教者養成の正式なクリニカルCPEの資格をとれるコースをもっております。 アメリカのクリニカル・エデュケーションの資格が取れると、公立病院でもどこでも正式に働けるということになっています。
Dhammarak Niwet Hospice Phrabat Nampu寺 Lopburi,Thailand (寺院の中のホスピス/タイ)
これは、タイのエイズホスピスです。 92年に行ったときは、患者さん3人だけでしたが、今は、私が教えている大正大学と東洋大学の仏教学部の学生や、慶応の医学部の学生がボランティアとして、スタディ・ツアーなどで行ってお世話になっております。
写真にありますように、患者と僧侶のかかわりは、僧侶が患者の傍らに行って、スキンシップ、触れたりさすったりする。 患者は僧侶の手を握る。 僧侶は患者の話に耳を傾ける。 ただただ手を握っているだけですが、患者は僧侶の手を握りながら安心し、心安らかになる・・・これを大事にしています。
このとき、患者さんは、みんな素手でさわっていますが、お坊さん、もちろんボランティアの方も、みんな手袋をされて感染しないようにしています。 私も住職と一緒に歩いたときに、たまたまお会いした患者さんが差し出された手が、体液でべとべとになっていました。 住職は、その手をぎゅっと握られたのですが、私も普段だったらするのですが、握る直前に、手にささくれを見つけまして、一瞬のうちに、この傷から感染したらどうしようかと、そういうお思いが巡りました。 ちょうど父を亡くしたときで、まだ子供も小学生で、そういうことが一瞬のうちに頭をよぎり、もし、私が感染したらどうしようかと思ったとき、恥ずかしながら手が出なかったのです。 それで、手を合わせてお辞儀をして帰ってきて。 そのとき、思わず戻ってきて泣きました。 何でできなかったのかと。 その住職にそのことを話したら、「日本のお坊さんには家族があって、壇信徒もいて責任があるから、しょうがないんじゃないの。 出家するって意味は自分の命を預けるってことだよ」と慰められ、自分の限界を感じました。
国立台大大学付属病院と緩和ケア病棟/台湾
これは、台湾大学の病室の一部です。 仏像があり、「往生室」という名前になっていて、お坊さんと医師といっしょに、こういう形で亡くなられる方をお送りします。
これは、同じ病院で、医師と看護師、ボランティア、お坊さんが一緒に回診をしているところです。 また、病室でこのように何人もの僧侶が患者を囲み、僧侶チームによる臨終行儀と法話が行われます。
日本の可能性と問題点
次にグリーフケアにおける日本の可能性と問題点ということで日本における医療と精神の問題を記しました。
• 過剰医療の現状:病床の割合が高い、過剰な投薬、長過ぎる入院期間
• 死と向き合う問題(告知・死生観教育)
• 多くの日本人は死と向き合う時に宗教者の介入を希望しない
• 死んでいく人は過剰医療の中で阻害され孤独であるのが現状
• 在宅ケアのサポート体制の不備
• 日本仏教の「葬式仏教」化、社会的役割の減少
• 患者及び家族は宗教との関わりがうすい。 死に対する恐怖心と「無縁社会」化が進んでいる
・・・等
また、日本の仏教的施設ですが、新潟県の長岡西病院緩和ケア病棟・ビハーラ病棟、 立正佼成会附属佼成病院緩和ケア科ビハーラ病棟 、あそかビハーラクリニック(浄土真宗本願寺派)があります。
そして、こちらは日本における臨床宗教者養成をしている所ですが、高野山大学と仏教大学などでは、このような施設をつくったのですが、2006年、2009年と、それぞれ廃止されてしまったのです。 非常に悲しい事だと思います(上智大学では、グリーフケア研究所が2009年に創立され、自立的なグリーフケア・グループのファシリテータと職業的グリーフケアと心のケアのチャップレンを育成、医療従事者の研修も行っている)。
続いて、こちらはアンケート結果です。 (表→)これはすごく大事なことですが「死期が近い時期に不安に感じることは?」という問いに対して、実際には、「病気の痛み苦しみ」であったり、「家族や親友との別れ」であったり、「残された家族」のことを心配されている。 「死ぬとどうなるか?」とかいうことは意外と重要ではないようですね。
2008年の意識調査で、「死に直面したとき、宗教は心の支えになるか」という問いには、約4割の方は、宗教は支えになると思っているという結果が出ています。
ところが、悲しいことに、「死に直面した場合に支えになる人は?」という問いに対して、宗教者はこんなに少ない。 配偶者、子供、友人、医師が上にあります。 やはり、患者さんは、医師に対して非常に神経を研ぎ澄まして聞いていて、非常に信頼を置いています。
そういう意味で、医師の方には、医療行為だけではなく、人間として信頼をして体を預けているところがあるので、非常に責任があるのだなということをおもいました。 お坊さんというのは、いつも回っていて聞かれるのは、「お布施はいくらしたらいいでしょう?」というような質問ですから。 (表↓)こちらは「お葬式に関するアンケート調査」です。 これは、浄土宗で7000ヵ寺にアンケートをし、内、実際に機能しているお寺5000ヵ寺、その内、2000ヵ寺から回答がありました。
「お葬式にどういう意味があるか」という質問ですが、お寺側は、「故人との別れ」17%、「故人の冥福を祈る」21%、「残された遺族の慰め」19%、「故人を極楽浄土に送る」27%、 と言う回答を出しました。
ところが、同じ質問を壇信徒の方に聞いたところ、一番多いのは、「極楽浄土に送る」そして「故人との別れ」、「故人の冥福」で、「残された遺族の慰め」というのはわずか1%でした。 お坊さんは19%がそう思っていて、ご家族の方は1%しかそう思ってないというのは、これはどういうことなのだろうか、ということです。
現状は儀礼が中心になって、プロセスに関わっていない。 葬儀法要が形式的になってきているのです。 では、気づくには、どうすればいいのでしょうか。 それは、とにかく壇信徒の方の話を聞く、一緒に過ごすということです。 こういう事を何らかの形でしていかなくてはならないのです。
これは医学生のインフォームド・コンセントの授業でやっているのですが、癌の末期の患者さんの役を俳優さんにやってもらって、「先生、助けてください。 私死ねない!」と言います。 言われた学生はみんな、医師として伝えなくてはならないことが、ぐるぐると頭の中を巡るわけです。 そうすると、俳優役をやっている人は、すぐに分かるわけです。 「この人は今、自分のことしか考えていない」「わたしのことは眼中にない」と。 学生はみな、医師としてどう答えるかばかりを考えてしまうわけです。
これは、私たち僧侶にも言えることです。 そういうことよりも、前にいる方の気持ちを受け止めるということ。 そのときは医師も僧侶も関係ないと。 それが、プロフェッショナルにとって一番大事なところかなあと思います。
また、僧侶の役割として、先ほどの質問にもありましたが、「葬儀」というものはとても大事なのですが、その土壌として、やはり信頼関係、あるいはそこに至るまでのプロセスに関わって行かないとなかなか難しいと言えます。 端的に言うと、亡くなった方のことを何も知らないで、お経をあげる僧侶には、いろんな想いが出てこない。 そこで法話をしても、おそらく伝わらない。 来ている方にも、ご家族にも。 しかし、その人のことをよく知っていて、その方が亡くなられたことが本当に悲しくて、お経中に涙がこぼれてしまったり、法話の時に声をつまらせてしまうなら、たとえ法話がよくなくても、その方が、よほど心が伝わるでしょう。 医師の方も同じだと思います。 医師の方が人間として同じ思いに触れてくれているということで、いろんな信頼関係もでてくるのかなあとおもいます。
それでは、どうやって、そのような関係を築くかということで、今、エンディングノートということが、非常に言われています。 それぞれのお寺のやりかたで壇信徒のかたと一緒に相談しながらエンディングノートをつくっていく。 そのなかで、終末期の迎え方、葬儀のあり方、戒名はどうするか、残された家族は?また、よく批判をうけるお布施についても、そのなかの一つのプロセスであるわけですから、含めて、やって頂きます。
それから、もう一つ責任としては、医療の現場で、ご本人は「延命医療はいらない」と、医師やスタッフにお話をしていても、ご家族の方が来て、「出来るだけのことをしてください」と言ったら、心苦しくても、ご家族の意見を聞いてしまう・・・ということがあります。 これらも、前もってきちっと家族で話し合うということを考えてもらうことが、非常に大事だと思っています。
■意見交換
西村氏
お二人のはなしが終わりましたので30分ぐらいご意見、ご質問を頂きたいと思います。
実は、2月にシンポジウムをやろうと考えておりますので、できましたら、ご質問とご提案を含めてお願いしたいと思います。 きょう結論を完結させる必要はありません。 2月につながるようにして頂いて結構です。 どうぞご自由に質問をして頂きたいと思います。
中村氏 (「自分の死を考える集い」主宰/「同和園」付属診療所所長)
一つ質問がありますが、お坊さんが、ビハーラ活動に参加することについてです。 私もかつてビハーラ活動に関わった事があるのですが、途中で足を洗ってしまいました。 理由は、檀家さんを抱えていないお坊さんは分かりますが、檀家さんを抱えているお坊さんが、見ず知らずの人のところに行ってどうなのか?自分の檀家さんにまずやるべきなのでは?ということが疑問に思ったのです。 実はビハーラ活動に対して、あまりいい印象を持ってないのです。
もう一つ、医者に、「人間としてどうだ?」とかいう問題が必ずでてきます。 これは、無理です。 特に、若い人はだめです。 ある程度年齢をいって、あるいは自分が死に損なうとか、家族が癌で死んだというような体験が無ければ。 要するに、生き死にの問題は、人生の問題ですから。 医者は人生勉強をしていません。 順風満帆で人生を送った人に、それを期待するのは無理です。
また、老も死も自分で引き受けるしかない。 そこを日本人はちゃんとしてなくて、誰かに何かしてもらおうとか、代わってもらおうとする。 また、ケアって言いますが、日本の場合は非常に甘いのです。 だから、死期が迫っている場合は死をみつめることができますが、それをしていない人が関わったところで、無理だと思います。 普段から「死と向き合う」とか「死を見つめる」というのは無理ですよ。 しかし死を視野に於いて生きるということはできます。 死の場面というのは、今の生き方の反映です。 今日は昨日の続きですから、今どう生きているのか、今どう医療を利用しているか、どう周りと関わっているか、それを毎日、点検、修正しながらという、それで死がくるわけです。 いきなり死がくるわけではありません。 それ以前が問題なので、全く死ぬことを忘れて生きているわけですから、そこが非常に問題なのだと思います。
戸松氏
ありがとうございます。 大変率直で正直な意見であったと思います。 おっしゃる通りで、檀家のケアができないお坊さんに、一体、外で何が出来るのでしょうか。 まさにその通りだと思います。 わたしはそのために、エンディングノートをつくって、壇信徒の方と相互信頼関係を築いていくべきだと。 ただ、お坊さんには、お寺を持ってない方もおられますし、次男三男の方もおられますし、ずいぶん暇なお坊さんもおられます。 そういう方には、是非、自分たちの領域をこえた、いろんな方とともに働いて、お互いに勉強し合って頂く。 ビハーラ活動もその一つだと思います。
それから、医師についてのことですが、学生はたいへんモチベーションは高いと思います。 それが、実際に研修医に出て、そして医局制度に入ってですね、その中で、だんだんいろんなことを学んで、今おっしゃったふうになっていく可能性があるのかなぁと思いました。
山岡氏
僕は医者ですが、医師には厳しい意見をもっている方ですが、ただ、(先ほどの話は)ちょっと言い過ぎかなとおもいますね。 この大きな問題は、初等教育からだとおもいます。 日本のいろんなものがずれていっているのは、みんな、自分で責任をとらないような体質に育ててきたことです。 我々が育てた子供たちが、今、医者になっているし、もちろん企業にも行っています。
もう一つは、おっしゃるとおりで、経験はいかに大事かということです。 これで、今、緩和医療に対して、若い人が手をあげているのは、数%しかいないという現状があります。
実は、若いときから緩和医療に入っていくのは、本当に患者さんの実体験なしになるのと、人の死を見て悲しく思う医者になってからなるのとでは、差はあると思っています。 若い時から緩和医療をめざすことについては、本音としては賛成ではない。
また、チーム医療については、パストラルケアにとってはとても大事なところです。 医師しかできない部分、ケアマネージャーしかできない部分。 役割を超えて一つになってするのは、パストラルの基本になっていて、それを守らない限りは出来ないと思います。
北園氏 (京都仏教会理事 圓通寺住職)
私は京都仏教会理事ですが、中村先生がおられた高雄病院にはずっと関わっています。 非常にいろんなことを模索しました。 全国医療協議会をたちあげまして、先ほど話が出た長岡西病院のビハーラ病棟も私たちの仲間でした。 立ち上げのときも参加しました。 いろんなことに関わらせて頂きましたが、頭のなかで、考えても患者には何も伝わりません。 いかに、そばにいて、分け隔てのないことができるかということが大切なのです。 お医者さんもそうですが、お坊さんもそうです。 分け隔てのないことが出来るかということなのです。
高雄病院に行くとき、私はいつも勉強させてもらうと思って行っています。 最初のころは来てあげている、教えに来ているという感覚がありましたが、何十年たってくると、そういう感覚はなくなりました。 どういうふうにすれば、この患者さんはいきいきするかなとか、頭が痒そうなので頭を洗ってあげようかとか、そうすると、どんどん会話が生まれ、コミュニケーションがとれるようになってきました。
そういう状態の中を何十年みていると、あれがいい、これがいい、こういう病棟がいいとか、そういうことは、どうでも良くなってきます。 どんな病院がすばらしくても、名医であっても一緒です。 素晴らしい病院や医者がいいのなら、そういう人をコンピューターで探して、どこにでも行けばいい。 でも、そういうことでなくて、心のケアということになると、やはり、常日頃からの対話が必要です。
檀家寺であってもそうです。 病院に行っていると、わたしのお葬式をしてくれませんか?という人もいます。 でも私は、私がここに来ている限りは、皆さんのお葬式は一切しないと言っています。 だから余計につきあいが長いのかもしれません。 いかにつきあうか、それがお坊さんと医者の立場なのです。 どういうふうにお互いが協力しあって「場」を築いていくかも、これから大切になってくるでしょう。
塩田氏 (京都大学副学長)
私も医者ですが、さきほど中村先生がおっしゃった、若い医者が頼りないということですが、いつの時代も若い者は頼りないものです。 ただ、最近の若い人にとって不幸なのは、生死が身近にないことです。
我々は自宅で祖父、祖母が亡くなったり、また、犬が死んでかわいそうということがありましたが、最近の核家族化などで、肉親が死ぬこと、人はどうやって死ぬかということを見ていません。 生死は、バーチャルに見るしかないわけですが、そういうイマジネーションも衰えているのです。
また、医学部が特に受験が難しく、偏差値が高い学生が入るようになりました。 我々の大学なんかをみておりますと、そこそこの家庭環境で、小さいときから問題なく育ってきた。 悩んだり、苦労した経験がない人が多い。 これは非常に問題なのかもしれません。
また、私は研究を中心にやってきたのですが、個人的にスピリチュアリティには興味がありますが、少なくともわたしたちが学んだ医学では、そういうものを意識的に排除してきました。 我々はサイエンスとしての医学を究めるべきと、それは学生にも染みついていることで、むしろ、感情的なことやスピリチュアルのようなことを、医学教育の中でタブーとしてきました。 たとえば、山岡先生が信仰心に厚く、人間的にもすばらしいことは、山岡先生が大学をやめられて個人的なおつきあいの中で分かったことで、教授会の議論の中などでは出されなかった。 むしろ、我々が出すのを控えているのかもしれません。
それから、もうひとつ、一般の人が生死について考えることが少ないという話がありましたが、わたくし、解剖学をやっていましたので、白菊会という献体の会をお世話しておりました。 今は、ほとんどが、生前の意思で「自分が献体します」として献体されるのですが、自分が亡くなったら献体しようという人は、ある意味合理的ではありますが、死を考えて、亡くなったらこうしようということが考えられる人ですし、生きるということに非常に積極的なのではないかと思います。 また、健康に人一倍関心が高い。 またこれは正確なデータがあるわけではありませんが、献体に協力した人は長生きだという。 健康にも気をつける。 そういう例もございますので、お坊さんも医者も、生死に対してもっとフランクに話ができればとおもいます。
田中氏 (龍谷大学 教授)
お坊さんでも、医者でもない、大学教授です。
今日は、戸松先生から、タイのエイズホスピスの話をされましたが、タイでは小乗仏教の僧侶は社会参加をしますね。 タイの僧侶を、見ていると、いろんな社会問題に対して、感性、感度が高い。 また今日の話を聞いていて思うのは、宗教が社会の中心から去って行ってしまった、中心でなくなってしまった社会で、宗教者が何をもとめられているかを象徴している話が、ずっと続いている。 死者や死にいく者のための宗教になっています。
社会のあり方そのものを考える宗教ではなく、エイズなんかも、社会のあり方が生み出した病巣ですから、それに立ち向かっていく。 それは、エイズホスピスというかたちでも出てくるし、社会運動としても出てきます。
日本の場合は、ヨーロッパの場合もそういうこともあるみたいですが、宗教は社会の中心にはなく、その社会が生み出してきたいろんな問題のスィーパー(あとしまつや)のような位置づけになっているということを大前提に話が組まれているという、そんな悲しいものを感じます。
宗教者に言いたいのは、先ほど戸松先生がおっしゃったように、寄り添う、気づく、聴くということですね。 社会にいる人たち、病院に入ってくる人はばかりではない。 日本では少ないかもしれないが、路上で死んで行く人たちだっている。 その社会がいろんな問題をもっていて、グローバリゼーションが進んでいくと、日本もすごく格差が出てくる。 一流の病院ですごいケアを受けられる人と、路上で亡くなる人と格差がでてきます。 そういうときに、仏教が、病院に入れる人たちに対してだけでなく、そこをはじき出された人に、寄り添う、気づく、聴くと言うようなことが出来ないと、結局、宗教は、体良く尻ぬぐいをさせられるのでは、と思います。
だから、科学が行き詰まれば、スピリチュアルケアと言う形でしりぬぐいをし、社会が行き詰まれば、そこでも尻ぬぐいをするという。 宗教って、そういうことでいいのかなぁと思います。
これは、主題から少し外れているかと言えば、そうかもしれませんが、そういう大きなことを考えながら宗教が医療とどう関われるか。 ここで関わってくださいといわれて、宗教が関わる。 ここの限定したところで関わってくれといわれて、はい、どうしましょうかというのも大事だとは思いますが、やはり宗教者自身が、社会が抱えている問題に、どういう風に関われるか、と言う形で物事を考えていくなかで、医療が選択されるというなら、僕は納得するのですが。 戸松先生いかがでしょうか。
戸松氏
ありがとうございます。 今の件に関してですが、たとえばアメリカでも、先ほど紹介した禅プロジェクト、マイトリというところは、入るのに制限があり、年収300万以上の方は入れません。 これは、仏教だけではなく、キリスト教の教会でもそうです。 ある意味、先進国では宗教、宗教団体は、その役割としては中心的な価値観からは外れたところにあります。 役割としても、社会的システムのなかで、ケア出来ない方と関わっていくということで、公益性が担保されているということが、ヨーロッパでも、アメリカでもおこなわれています。
日本では、たとえば私は、「ひとさじの会」をやっています。 これは、東京の山谷の若いお坊さんたちが中心となってやっているものですが、ホームレスの方たちに声をかけて、自分たちでつくった美味しいおむすびなどを一週間に1回配っている。 これが、徐々に結果として出てきていて、行政のほうも表立ってではなく、陰からサポートをしてくれています。
また、西村先生のおっしゃる「お寺の怠慢」ですが、これは実は構造的な問題があります。 明治になり、もともとサポートされていたものが全部なくなり、自分たちでやっていかなければならなくなりました。 結局はお布施の収入に偏ってきて、特に高度成長の中で、どんどん上がっていくお布施に甘んじて、それをやっていればお寺を支えていくという構造になってきて、結局は、そういうところに目がいかなくなってしまったのではないでしょうか。
昨今のお布施のことでご批判を頂いて対応してきたわけですが、今日、お配りした資料の中にもありますが、お布施の問題で、非常に厳しいご意見を頂いている方々のものを載せました。 これは、一般の方が多く思っておられることで、それに私たちがどう対応するか、そして、私たち自身がお布施の精神を具現化するのに関係性の中でしていかないと、言っていることと、やっていることが違うと、お坊さんが看取りに関わるとか、社会活動をするといっても信頼されません。 非常に大きい意味では全部が関連しています。 お布施の問題も、生老病死の死のところを一緒に考えていかないと、「値段を決めればいい」とか、単純な問題ではありません。
今、タイも、実は非常に危機的な状況にあり、質の問題も出てきています。 お坊さんのほうが、壇信徒よりお経をよめないとか、質問しても返ってこないとか。 そういうことが多くおきています。 そういう意味では、危機的な状況の中から、本来仏教のもっているあるべき姿を示そう+ということで、いろんな運動がおきてきております。 そういう意味で、タイも非常に危機的な状況にあるのです。
西村氏
そろそろお時間がきておりますが、少しお願いがありまして、先ほども案内がありましたように、次回は2月ということになっております。 実は今までの話題に出なかったことがひとつ。 「いま、どうして京都で」という話でありますが、そういうことについてご意見ありましたらどうぞ。
中野氏 (曹洞宗総合研究センター講師 龍宝寺住職)
この会が今年の春から始まり、京都から発信できるということで、おそらく、西村先生のおっしゃる経済学の問題からも、我々の生き方、医療現場においても、つまり「知足」というか、人生を満足するかということが、キーワードにあるんじゃないかということで、研究会を続けているわけです。
今日の3人の先生のお話に共通しているなかに、「あの世」の問題というのがあります。 さきほど戸松先生が、浄土宗のある統計で、「極楽浄土に送る」27%とありましたが、これは高いのではないかと思いますが、それは、漠然とそういっているのであって、あの世というものが、お浄土の場合は念仏ですから、割合高いにしても、はっきりと、みなさんがそれを知性によって認識して、現在の生き方に反映しているかという問題ですね。
実はこれは、東大の島園先生が、そういうシンポジウムをずっとやっておられますが、その時に気がついたのですが、私は、「断絶と連続の問題」だと思います。 死ぬというのは断絶です。 愛は連続です。 千の風は連続感の問題ですね。 死者が向こうからみて連続しています。 しかし、断続と連続は、トラブルのある人にとって断続感は喪失感であり、非常につらいことなのです。 また、死者との連続は負い目だったり、たたりであったり、そちらに代わるわけです。
自然の摂理としての資源であったなら、これは仏教では「如実知見」というのですが、これは事実として、真理として、神のみ心として、仏教で言えばご縁としての断絶。 だから、喪失感はもっても、人間の負い目は少ないのです。 そういう方の連続感は、愛の連続感であり、キリスト教だと天国やイエスキリスト、仏教でいうとお浄土ということになるのでしょう。 ただ、それが語られないのです。 語っても、お坊さんは、概念で語っている。 つまり憧れとか、生き方として、人生よかったと言えるような、そういう意味で輝くカタチで語ってないのではないかと。 それでは、壇信徒には伝わらないし、病人もそういうイメージでみていなません。
わたくし、50人の亡くなった方の本をまとめたことがありますが、数人が、はっきりとそういう意識を持っている人がいます。 その人たちは新宗教の人でした。
ですから、私たちが本当に憧れるものがあったら「あの世」はいいものになるわけです。 あの世に愛する人や尊敬する人がいたら、生きているわけです。 ただ、それをお坊さんはイメージしていません。 今の日本人は特に欠けています。
そして、断絶の問題ですが、さきほども死が間近にないという話がありましたが、最近、ペットがなくなると、ものすごい反応なんです。 昔の動物が死んだ時の反応と、まるでイメージが違います。 それは、執着なのです。 しかし、それでも「人生よかった」と思うのです。 そういう意味で、「よかった」といえるようになるのは、あの世も良かったになるわけです。 そういう視点を、どういうふうに「京都発」ということで発信できるかです。 今日、いろんな問題を出していただいたのですが、今後の考えるテーマにこれがあるのではと気がつきましたので、提言させていただきたいとおもいます。 ありがとうございました
西村氏
みなさんに少しずつ意見をとおもっていましたが、時間となりました。 これで、今日の研究会は終了させて頂きたいとおもいます。
長谷川氏
ありがとうございました。 とても大きな、重要なテーマですが、このテーマを我々が、みなさんとともに、どういう風に解きほぐしながら、カタチとして纏めていくのかというところが、次の課題じゃないかとおもっています。 2月13日午後1時に、これまでの研究会をベースにして、市民の方々にもう少し参加していただけるシンポジウムを開催する予定をしております。 皆様方にもご案内をさせて頂きますが、ぜひ、このシンポジウムを通じて次につなげていくためのきっかけにしていきたいと思っております。
皆様方には、先ほどから出ている「知足」という話、また「あの世」という話などについてアンケートをお願いし、それをシンポジウムに反映させて行きたいと考えております。
では、京都仏教会理事の北園さん、最後にご挨拶をおねがいします。
北園氏
本日はありがとうございました。
一部消化不良の感もありますが、次回を楽しみにしたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。