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第4回 医療と宗教を考える研究会

 

~知足と経済学~
 
日 時 : 2011年7月30日(土)13時~16時30分
会 場 : 清水寺大講堂 洗心洞

 

 


 

第4回 医療と宗教を考える研究会

長谷川 (医療と宗教を考える事務局)

 

本日は、大変お暑い中お集まりいただきありがとうございます。 只今から今年度最初の「医療と宗教を考える研究会」を始めさせていただきます。 

 

日本は戦後復興、高度経済成長とともに世界第2位の経済大国となりました。 しかし、バブルがはじけ、「失われた20年」を経ても日本の針路を導き出せずにおりました。 そんな中で直面した東日本大震災で、日本人の良さが世界から評価されました。 この震災を通じて日本人が日本人自らを見つめ直す機会を得たのです。 この研究会は人間の価値観、生き方、哲学というものを宗教都市と言われる京都でもう一度考えようというもので、医療資源と宗教資源の豊富な京都で「生きる」を究めたいと考えております。 その中のテーマが「足るを知る」、つまり「知足」です。 

 

しかしこの「知足」という哲学ですが、経済がグローバル化し世界が繋がっている時代に、「知足」を機能させることができるのでしょうか。 ということで、今日はおふたりの経済学者にこの「知足」をテーマに対談をしていただくことになりました。 

 

今日はどんな内容になるのか、わたくしも関心を持っているのですが、京都というのは、経済人、医療人、宗教人、それから、というようにどうも強い縦割り社会であると思うのです。 この研究会では、それを横串にさしながらどういう生き方をしたらよいかを考えるスタートにしたいと思いますので、よろしくお付き合いの程お願い申し上げます。 

 

この研究会は、京都仏教会と、法人化しまして名前の変わりました京都クオリア研究所のこのふたつの組織でもって運営しております。 まず、京都仏教会の宮城常務理事から開会のご挨拶をお願いしたいと思います。 


 


 

■あいさつ

 

宮城泰年氏

宮城 泰年氏 (京都仏教会常務理事)

 

本来であれば、この研究会のメンバーであります仏教会の理事長、有馬賴底がご挨拶をするべきでございますが、大変多用でございますので、代わってわたくしがご挨拶させていただきます。 

 

今年の第1回の研究会では、知足と経済学という非常にユニークな表題、テーマで研究会が持たれることになりました。 先日に田中茂先生がおっしゃったことをちょっとそのまま借りますと、古い時代では宗教や信仰が人々の生活規範をなしていて、それで全てが判断されました。 しかしだんだん時代が進んでまいりますと、政治と宗教が分離され、さらに企業・経済が発達してまいりますと、今度は経済が政治を動かすようになっていく。 宗教がだんだんと、置き去りと言いますか、宗教の立場が変わってきたと言うような意味のことをおっしゃっていたように記憶しております。 

 

知足というのは、「吾唯知足」と有名な蹲(つくばい)にも出ております言葉でもありますが、非常に宗教的な言葉なのです。 経済と知足、しかも知足というのはそこに少欲ということが付いてくるわけです。 それをひとつのテーマでお話しいただけるのですが、今回は西村先生、篠原先生、本当にいい企画にお出ましいただきまして、感謝申し上げます。 それでは簡単でございますが、一言ごあいさつに代えさせて頂きます。 


 


 

■対談 「知足と経済学」

 

長谷川

 

対談をしていただくおふたりをご紹介します。 おひとりは、国立社会保障・人口問題研究所所長であります西村周三さんです。 昨年3月までは京都大学の副学長をしていらっしゃいました。 それから同志社大学経済学部教授の篠原総一さん。 西村さんと篠原さんは、生まれた年も一緒で、大学を卒業した時も一緒、東大と京大ということで、同じ時代をずっと生きてこられた先生です。 

 

知足というテーマで経済学者がどういう対談をするのか。 西村先生は、特にご専門が医療経済ということですので、「知足」についてどう語り、国際経済・マクロ経済がご専攻の篠原先生に対してどのように攻めるのか。 それに対して篠原先生がどう対応するのというあたりを大変ご関心があると思います。 今日は経済学の勉強ではなくて、ぜひ経済とはなんなのかということをじっくりとお話しして頂いた後、皆様方と自由な討論をしていきたいと思います。 

 

 

西村 周三 (国立社会保障・人口問題研究所長)

 

1945(昭和20)年 京都市生まれ、1969(昭和44)年 京都大学経済学部卒業。 横浜国立大学助教授、ハーバード大学非常勤講師などを経て、1987(昭和62)年 京都大学経済学部教授。 2006(平成18)年 京都大学副学長、2010(平成22)年から現職。 医療経済分野の第一人者で、「医療と福祉の経済システム」「超高齢社会と向き合う」「社会保障と経済社会サービスと地域」などの著書多数。 

 

篠原 総一 (同志社大学大学院教授)

 

1945(昭和20)年 岡山県生まれ、1969(昭和44)年 東京大学経済学部卒業後、1973(昭和48)年 シカゴ大学大学院修了。 ウォータールー大学助教授などを経て、1984(昭和59)年 同志社大学経済学部教授。 経済教育センター代表として学校現場における経済教育の推進に取り組む。 「アメリカ経済をみる眼」「ベンチャー魂:日本経済よ、蘇れ」「マクロ経済学入門」など著書多数。 

 

 

西村周三氏(国立社会保障・人口問題研究所所長)

西村 周三氏 (国立社会保障・人口問題研究所所長)

 

ご紹介いただきました西村でございます。 レジュメに余計なことがいっぱい書いてありますが、大事な点は3つです。 1つ目の話は大した話ではないので、先にぜひ皆さんのご記憶に留めていただくために、2つ目の話を先に申し上げます。 

 

結構この話は堅い話で、学問的なかなり難しい話です。 どういうことかというと、少欲知足を一人ひとりの人間が目指すということを、ここであまり議論したくないというのが2番目の話です。 今日の話は一人ひとりが欲を少なくして「足るを知る」にはどうしたらいいかというお話するのではありません。 それはむしろお坊さんにやってもらうほうがいいのです。 むしろ私たちは、それが社会全体の考え方になるのはどういうことか、あるいはなっていいのだろうか、あるいはどのようにしたらなるのかという話をしたいのです。 

 

実は、これは非常に微妙な話で直観的な話で、東洋的なものと西洋的なものでは若干違うように気がするのです。 これが2番目に申す大事な話です。 先に言ってしまうと個人主義というのが議論の対象となります。 基本的に西洋の思想の流れのところで、まず話題にされてこなかった学者の話をします。 マンデヴィルという人の考え方です。 経済学の祖と言われるアダム・スミスは利己心ということを、「利己的な人間が社会を動かしていくということをわり」といったのです。 マンデヴィルは、それをもっと素朴なカタチで、しかしわかりやすいカタチでいいました。 そしてマンデヴィルは、結構恐ろしいこといっています。 簡単にいうと、一人ひとりが少欲知足だったら、世の中発展しないよというようなことをいっているのです。 だからそこをどう考えるんでしょうということをぜひ申し上げたい

 

そのベースには個人主義があり、西洋の思想の中でいろいろ議論が進んできました。 ブータンのことを書いている本林靖久さんの新聞記事(参考資料1参照)を読んで、日本はやっぱり個人主義の国ではないのではないかという思いに至りました。 個人主義というのは利己主義とは違うのです。 利己主義ではなくて、利他の気持ちを持った人もいるのです。 しかし、利己であれ、利他であれ、個人主義の国ではないんじゃないかということを思いました。 表現がよくないかもしれないですが、半強制主義、あるいは思いやり主義。 

 

西洋は個人主義の国だと言いますが、私は実は本当は子どもたちに無理やり個人主義を親が叩きつけている国です。 ほっといたら個人主義ではないと思うのです。 面白い例でいうと、道を歩いていて、日本だったら2つに道を分かれているところに子どもが差し掛かった時、お母さんが、こっち行ったほうがいいよというのに、欧米ではあなたのいいと思う方向に行きなさいといったりします。 次の表現がよくないかもしれないけれど、一人ひとりの個人の自立というのを無理やり育てようとする傾向があるように思います。  2番目の話はもう一回後で繰り返しをさせてもらいますが、その前に経済学というのはいったいどういうものでしょうという話をしないと、篠原先生とあまりかみ合わない可能性があるので、ちょっとだけ経済学の話をほかの話とひっかけて1つ目の話をします。 

 

先だって大阪大学総長の鷲田先生が対談のようなもので、「今回の震災についてどういう風にしたらいいのかということに対して、経済学者がみんないうこと違うじゃないか」という話をしておりました。 結論を先にいうとみんないうことが違います。 そのなかでも増税するかしないかということが一番大きな問題です。 「増税なんかしたらいけない。 国債発行して日銀引き受けして、とにかく国が借金してもいいからどんどんお金を使え」という話をする人と、「これだけ借金多いんだから、これ以上使ったらいけない」という話をする人に分かれます。 私の表現に異論があったら後で伺いますが、まともな経済学者は増税が圧倒的です。 ちょっと言い過ぎなのですが、時々変な経済学者がいて、10兆円増税してというのが案として出たのに、財務省の陰謀だという話で、増税するかしないかはっきりしないカタチでやるということになっています。 いろんな考え方があるというのですが、私も篠原さんも、どっちかというとまともな経済学者だと思います。 

 

私は、数少ないアメリカで学位を取っていない経済学者で、篠原さんはアメリカで学位を取った経済学者です。 アメリカで学位を取った経済学者のほうが、まともなことをいいます。 しかし、まともなことをいうのだけれど、言葉の使い方とか少し誤解があります。 例えば競争といったら、アメリカでは競争は当たり前だと思うのですが、日本では、競争というとなんか悪いことをしている印象をもたれるのです。 アメリカで経済学を勉強してきたら、競争と当たり前にいうわけです。 そうすると、日本の人がアメリカで学位を取ってきた篠原さんを見て、「競争、競争といって人を蹴落として、自分だけ出世しようと思っているだろう」という風に思う人もいるのです。 私は、それは違うと思いますが、どうも福沢諭吉の時代から、競争という言葉は、人を蹴落としてというイメージがあると思います。 少しお考えいただいたらわかるのですが、人と少し違う面白いことをして一生懸命頑張る人に対して、競争しないでおこう、みんなであまりいい知恵を出さないでみんなで仲良くしようというのはおかしいと思います。 

 

話を戻しますが、復興に相当お金を使う必要があるということは、意見が一致しています。 しかし、そのお金をどうやって調達するかということは、学者によって意見が違います。 大きく分けると3種類あります。 ほかのお金を使うのをやめてというのがひとつ。 国債を出すなど国が借金をするのがひとつ。 もうひとつは、税金集めるというもの。 もちろん税金もいろいろあって人によっていうことが違います。 最近、私は「金持ちからたくさん税金を取るというのは、もう金持ちがあまりいないから意味がない」という論文を書きました。 この20年間は経済がよくないので、金持ちが減っています。 取っても10兆円くらいのお金を調達するのは難しいのです。 

 

1000万円もらっている人から税金800万円取ってということはいくらなんでもまずいでしょう。 でもこれは嫉妬の社会の話といえます。 1000万円もらっている人に対して、200万円の人が嫉妬するのです。 1000万円からは700万円取れると考える人がいるが、それはちょっと違うでしょというのが、普通の常識ある人の考え方ですが、一部の人は、常識を持たない人がいるというこの世の中の悲しさがあります。 所得税・法人税も、同様と言えます。 

 

震災後、いろんな専門家がそれぞれのことをいっている分野で、お気づきではありませんか。 それは、放射能です。 私は医療をやっているので最近放射能について勉強したのですが、本当に信じがたいくらいいい加減なことをさも大変な風に言う学者と称する人間が多いことか、これに私は本当に頭にきております。 はっきりしていることは、放射能はチェルノブイリで子どもに甲状腺がんを起こす大きな原因となったことです。 私も日本の福島に行って分かったんですが、測定値がしっかりと測定されていない。 しかも、ガイガーカウンターを持ってまわると、10メートル違ったら全然違う値が出るのです。 だから、ここはどのくらい汚染されているかということは、結論わからないのです。 そういうものを見て、極端な1個を取って、最初から結論を決めている科学者がいます。  こういうわからないものに対して宗教家にお願いしたいことがあります。 これは宮城さんが冒頭に話されたことと関係してくると思うのですが、宗教がだんだん衰退してきたことと関係していることだと思います。 死んだらどうなるのかわかりません。 ところがだんだん科学の知恵でわかるのだと思ってしまって、自分がわかってなくても、誰かがテレビに出てきて知っているといって、死んだら何もありませんよという人が出てきたら、そうかなと思ってしまうのです。 それに対して、わからないことに耐えるという力を、これからこの社会は必要となると思うのです。 そして、そのためにこの会で、宗教家の皆さんからいろいろ教えてほしいと思っています。 

 

科学ではわからないことがたくさんあります。 こういう時こそ、宗教家が必要だと思います。 例えば、宗教家にがんになるでしょうかと聞いても、わかりませんと言うでしょう。 わからないから宗教家がいいのです。 わからないときに私たちがどうしたらいいかということに対していろいろアドバイスをしてくれますので。 1番目の話の結論をいうと、これだけいろんなことを言う人がいて、わからないことがたくさんあるのですから、この社会で、私はいろんな議論をするときに、わからないことがあるということを一人ひとりが自覚して、もう少し謙虚に取り組むことが大事だと思います。  これは、2番目の話の私のテーマと関係しています。 日本人は、残念ながら、各自が意見を持ち議論をすることに関して、そして民主主義ということに関して、あまり上手ではないと思うのです。 例えば一人ひとりが少欲知足を目指したとき、おそらくそれだけではこの世の中なかなか幸せにはなれないのですが、ほかの人も一緒にというのが日本的な感覚です。 これはいい面もあるのです。 みんなで渡れば貧しくっても平気だよと気持ちになることができるという点です。 個人主義的な発想をこの国はしっかり徹底していないのです。 西洋とは違う別のやり方で一人ひとりが少欲知足と思った時、社会全体で少欲知足を実現する仕組みはどうやって作ったらいいかという議論をすべきではないでしょうか。 

 


対談の様子1

例を挙げます。 今から30年くらい前には、自動車が公害をまき散らすという話がありました。 そのとき、自分が自動車を持つこと、他人が自動車を持つこと、多くの人が自動車を持つことをない交ぜにして議論してきました。 自分が持つのがよくないと思った人は、他人が持ってもいけないというような雰囲気をこの社会は作りました。 これは、日本の欠陥だと思うのです。 自分だけの話ではないということに伴う話なのですから、もうちょっと突っ込んでこの話を議論しないといけないと思います。 少欲知足に関して、物質的な欲望は、もういいんじゃないかというのは、かなりの多くの意見だと思います。 それを人に強制してもいいのかという話なのです。 

 

欧米は個人主義ですからそれはいけないのです。 日本の場合、仏教と結び付くいい面と悪い面の両方がありますが、私の表現がいいかどうかわかりませんが、半強制主義。 つまり、ぼくもこう思っているのだから、あなたもそんな贅沢な時計を持たなくてもいんじゃないというようなことを上手に伝えるやりかたです。 でもそれを他人に強制してはいけない。 

 

もう一度車の話をしますが、結論はすごくはっきりしていて、必要な人が乗ったらいいのです。 これはおそらく誰も反対しません。 そういう意味で、経済学の考え方は、あとで篠原さんもおっしゃると思いますが、決して少欲知足と矛盾しません。 しかし、この世の中には、物質的な欲望を肥大化させることが幸せにつながるということを言うような例外的な人がいます。 それは決してまともな経済学者ではないのです。 ところが、社会的には経済優先・効率優先という風潮があります。 決して、経済的にうまく成功している人が、効率優先をやっていません。 もっというと効率優先の人のほうが失敗している率は高いと思います。 しかし、経済で普通の暮らしを普通に求めて、必要なものを必要なだけいただいて暮らしていくということは、経済と矛盾するという考え方があります。 

 

3番目はブータンの話をさせていただきます。 来る12月にブータンの方を交えて、アジア全体で国民の幸福がどういうものであるかという指標づくりの国際会議を日本でやるのですが、私はその座長をすることになりました。 その意味で、お手元に配付している本林さんのこの話は、とても参考になります。 新聞記事の最後のところが、私は一番大事なメッセージだと思っていまして、「死を含む幸福」というのを本林さんが提唱しておられます。 ブータンはやっぱりこういうことをしっかり考えているというところです。 経済学者の引用を除いて本林さんの考えに全く賛成です。  この京都でブータンを作ることができるでしょうか。 ブータンと日本の違いについて、新聞にいろいろ書いてあります。 ひとつおそらく間違いないと思いますが、自信はありませんので反論があったら伺いたいと思うのですが、小さな国だからというのはいえると思うのです。 顔が見えてみんながコミュニケーションできて、そこである一定の価値観を共有する。 注意深くご覧いただくとわかると思いますが、決してみんな同じでないといけないという発想の国ではないのです。 これはブータンのとても大事なところです。 むしろ日本のほうが、みんな同じでいないといけないという発想が強すぎると思うくらい、ブータンの一人ひとり考え方が違うのです。 

 

しかし、ブータンと京都は共通しているところがあるのです。 ブータンは顔が見える社会です。 もちろんいい面ばっかりではないと思います。 見えすぎると必ずさっきのような違う意見を持った人を排除するという考えが出てきます。 しかし、そのあたりは京都は長年の都ですので、京都人がみんなである共通の価値観を持ちながら、違う考えを持つ人が共存するのが上手な都市だと思うのです。  最後に、案を申し上げます。 少欲知足で私は行きたいと思います。 しかし、そのとき私たちは例外を認めたいと思っています。 少欲知足であれば、社会が利益を上げることがよくないと思う人がいるかもしれません。 半兵衛麩の家訓に「先義後利」というのがありまして、人様のお役にたつ商売をし、それによって得た利益を世の中のために使う。 それが正しい商いの道として半兵衛麩の基本姿勢となっています。 こういった発想がしっかり理解できるとき、そこに利益が発生することをみんなで褒めたいと思いますというのが一点です。 

 

私が作った言葉がですが、「先知後利」。 足るを知るという言葉がありますが、私は物質的な欲望については足るを知りたいと思います。 しかし、知るは足らない。 これはお坊さんに叱られるかもしれません。 キリスト教なんかも、あんまり知恵が小賢しい人間はだめと地獄に行くぞという話がありますが、学者なものですから、いろんなことを通じて知るということに喜びがあります。 つまり、私たちはもっともっと知りたいという欲望は大事にした方が良いのではないか、と思います。 

 

次が一番言いたいことなのですが、「先賢後利」。 今の政治家は賢明でない人が多すぎる。 しかしその理由は、私たちが選ぶ基準をしっかり持っていなかったからではないかと思います。 彼らは欧米では、law maker、法を作る人といいます。 実は私は、竹中平蔵さんたちが、規制緩和を言っていた当時、少し違和感を持っていました。 なぜかというと、規制緩和というとやりたい人が好きにやったらいいという社会を作ることかと思ったからなのです。 しかし、実は東京に行って分かったことがあります。 この国はがんじがらめで法律でものを決めすぎている。 それが東北の復興を遅らせている大きな原因だと私は考えています。 もちろんお金の問題もありますが、同時に「お金をあそこにつぎ込んだらいいじゃん」というのが、素人の常識です。 しかし本当にたくさん法律を作りすぎていて、その法律に少しでも抵触していると動かないのです。 そういうことを解決するには、今の段階では、選挙で法に詳しい人を選ばないといけません。 法律の試験をして受かった人だけ、選挙に出ることができるというのはどうでしょう。 

 

次は「先創後利」。 最近広井良典さんという方が、先ほど言ったマンデヴィルを「創造的福祉社会」という本で紹介しています。 この本でも言っていますが、ぱっと聞いただけでは理解できない新しいものを作る人を、私は尊重したい。 簡単な例でいうと、ipadやiphoneを作ったジョブズは、いい意味でも悪い意味でも、世の中を変えています。 悪い言い方をすると世の中を混乱させています。 携帯がなければやっていけないような社会を作った元凶のひとりが彼だと思います。 しかし私は、それはおもろいでという気持ちで、受け入れる社会のほうがいいのではないかと思います。  最後に自分のことをいいます。 自分はすごいいい人だと思っています。 人と仲良くできる才能を持っている人間だと思っていまして、そういう人間を皆さん、もっと褒めてください、というのが最後の落ちでございます。 

 


篠原総一氏(同志社大学大学院教授)

篠原 総一氏 (同志社大学大学院教授)

 

西村先生とは、ご紹介いただいたように、同じ年の生まれで、同じ時期に経済学を勉強し、同じころに教師になり、その後も同じような道を歩んできました。 お互いに若いころからよく知っています。 その意味で、互いにどんな話になるのか、我々ふたりの間では、すでにわかり切っています。 

 

ご紹介していただいたとおり、私は、個人の幸せや個人の生活に密着したこととは全く縁遠い、為替がどうだ、アメリカの政策が日本や中国の経済にどんな影響を与えるのかといった類の問題について勉強しております。 経済学は、個人の幸福とは無関係な学問であるような印象を持たれているようですが、実は、経済学はそれなりに世の中の役に立つ研究だと思っております。 

 

経済学を含め、社会科学では、社会のことを観察しますが、その社会は大変な数の個人が互いに影響を与えながら協働作業をしているわけですから、すべての作用、反作用をつぶさに観察したり、ましてや同じ状態を再現してみせることなど、できる話ではありません。 ですから、社会の問題を見極めるには、本質的な部分はここだという見当をつけて、そうではない部分は考慮から外すという作業が大切になってきます。 それを抽象化と言いますが、ちょうどピカソの絵が、不必要なものは取り除き、内面を表す部分だけに焦点をあてる人物画を描いたような作業です。 そうすると、抽象化するという作業は、観察する人の見方に依存するわけですから、観察者が違えば、それだけ違う見方がでてきます。 ですから、経済学でも、細かいところでは、経済学者のあいだでも意見が一致することはないのです。 

 

かつてケインズというイギリスの著名な経済学者がいましたが、時の総理大臣チャーチルが8人の経済学者にある経済政策について諮問した時、9つの答えが返ってきた。 その2つの答えを出したのがケインズだという有名な逸話があります。 そのくらい意見が違うものです。 ですから、西村先生と私の理解も、おそらく相当に開きがあるはずです。  今日お話ししたいのは、ひとつは市場です。 市場は捨てたものではないということ。 西村先生も触れられたように、知足と市場経済は決して無縁ではなく、また相反するものでもないということを申し上げたいと思います。 

 

実は、長く経済学を勉強してきましたが、私が個人的に初めて知足を認識したのは、1984年に中国の大学で経済学の講義をしていたときのことでした。 当時、中国は解放直後で、全員まだ人民服をきている時代でした。 薄暗い教室で、それこそアメリカ流の経済学の話をしていました。 当時は、もちろん市場と呼べる仕組みはほとんどなく、かろうじて周辺の農家の人々が自分の作った野菜や果物を運んで路上で売っている。 これが唯一の市場でした。 あるいはミシンに車を付けて、それを押してきて、道路で人の持ってきた布を縫っているテーラーがいるとか、そんな単純な市場だったのです。 そのような環境の中での経済学の講義でしたが、その中で、こんな質問をしてみました。 需要と供給の概念を説明したあと、ある価格のもとで買いたいという人のほうが、売りたいという人より多かったと、需要が多い状態です。 そういうときには市場で何が起こるかということを聞いたのです。 そうしたら、賢そうな中国人の学生が一人手を挙げまして、この人は若い先生だったと思いますが、何の躊躇もなく、ただ一言、「品物が出てくるまで待ちます」と答えたのです。 これにはびっくりしました。 そんな答えが返ってくるとは思いもしなかったものですから。 経済学の講義ですので、価格が上がるとか下がるとか、そういった答えを期待していたのですが、その時代の中国では、極端な物不足でしたので、確かに待たないと仕方がないのか、と変に納得してしまいました。 

 

今日のテーマである少欲知足とは違う状態なのかもしれないのですが、とにかくそのときはじめて知足という言葉が瞬間的に頭に浮かびました。 

 

実はその4年ほど前に、カナダの大学で教えていたときに逆のことを経験しました。 その当時、グループサウンズの曲が大流行で、ベイシティローラーズというとても人気のあるバンドが、田舎のキャンパスに来た。 その影響で、学生がみんな長髪にあこがれて散髪に行かなくなったとしよう。 そうしたら散髪のサービス市場では何が起こるかという問題を出したのですが、経済学の理解が不十分な学生の答えなのですが、その中で、散髪屋へ来る客が減ったら需要が減るから、散髪屋の所得が減る。 だから散髪屋は値段を上げればいいというものだったのです。 これは非常にカナダの実情を表していまして、困ったら政府が助けてくれるという発想なのですが、とにかくこのように中国の学生と対比してとても面白い経験をしました。 

 

私は、子どもたちに、私たちの社会のことをきちっと勉強してもらいたいと考え、子どもを対象とした経済教育をやっています。 経済、ないしは社会のことを学ぶことに関して、高校の先生方は大学に入ってから学べばもっとわかると思っていらっしゃる節があるのですが、実はそうではなくて、大学に入って社会のことを学ぶ学生というのはほとんどいないのです。 社会のことについて、網羅的に勉強する機会というのは、ほとんどの子どもにとって高等学校の「政治・経済」という科目が最後なのです。 しかし今ではこれすら選択科目になって、入学試験から省かれるものですから、ますます政治・経済の勉強をしなくなるのです。 そこで、最後の機会は中学校で勉強する社会科の「公民」になる子供も多い、だから、中学、高校の先生方しっかり教えてくれ、と全国を説いてまわっています。 

 

もともと私が経済教育を通して子どもたちに学んでほしいと訴えているのは、経済の中心は「分業」と「交換」に尽きるのだということです。 ロビンソン・クルーソーのように、何でもひとりでできてしまうなら、こんなものは必要ありません。 しかし、我々は、分業して交換することで、社会の大きな歯車になっているわけです。 経済の学習では、分業と交換の仕組みがうまく日本の社会で機能しているか、もし不都合なことが起こっているなら、それはどうしたらいいのだろうかを考えるのだということを教えてほしいと先生方にいっています。 

 

例えば、仕組みと言えば、市場というものもひとつの仕組みです。 あるいは、それに付随するカタチで企業、金融、政府もそうです。 それから、西村先生の専門の分野である医療サービスを提供する仕組みはどうなっているかなど、さまざまな分業と交換の仕組みがあります。 このことをうまく理解してほしいのだということを申し上げています。 そのときに、仕組みが機能しているかどうかを判断する基準を、中学校の学習指導要領に今年度から入っている「効率」と「公正」という概念を使うとよい、と説いています。 

 

経済の効率と公正といった時に、先ほどから西村先生が、効率なり競争なりという言葉は悪いことだと何となくとられているというお話をされましたが、その意味を皆さんに理解していただけたらと思います。 効率とは、社会が持っている資源を無駄なく使うということに尽きると思います。 日本には土地や、労働、資本や資金、情報や、もっと極端に言えば、人々の時間も含めて、資源には限りがあります。 それをできるだけ無駄なく使うことを学ぶのが経済学の柱のひとつです。 

 

例えば、大都市で、ほとんどの人がコメはあまり食べたくないけれども野菜は食べたいと思ったとします。 すると、市場のシステムは、人々の願いをごく自然に実現してくれるのです。 まず、小学生にでもわかるように、市場ではコメの値段が下がり、逆に野菜の値段が上がる。 それを農業からみると、同じ自分の土地や労働を使って生産するのなら、儲けが大きいほうがいい。 だから、それまでコメを作っていた人の中には、コメをやめて野菜の生産を始める農家が出てきます。 ということは、限りある農地が、そして限りある労働が、みんながもっと食べたいという方向へ、みんなが消費をしたいという方へ流れていくわけです。 これがまさしく効率という概念なのです。 いま、農業の話をしましたが、その他の産業もすべて同じことです。 だから自由に取引をさせればよいと考えるのです。 

 

ところが、例えば政治家がでてきて、日本人はコメだ、野菜よりもコメをもっと食べるべきだと考えたとして、これを実現させるために、野菜には消費税100%をつけたとします。 そうすると、本来は野菜を食べたいのだけれども、税が高すぎるのでコメで我慢をしておこうということになれば、実はこういう消費生活をしたいのだという望ましい姿があるにもかかわらず、資源がそちらのほうに移らず、あまり食べたくないコメの生産がそのまま残ってしまうのです。 実はこれを長く日本の政府はやってきたことです。 

 

では、無駄なくといったときに、どのように無駄なのか無駄ではないのか判断するのかは、人々の暮らしの満足感が損なわれるか損なわれないかということだと私は思うのです。 この満足感、経済学では「効用」と言います。 満足感が満たされるように、モノを売ったり買ったりするのですが、そのときにこれまでの経済学の分析では、実は人々の満足感は利己主義と物欲だけを反映するカタチになっていました。 元来、満足感はどんなものであっても原理は同じだと思うのです。 しかしながら、西村先生の言葉を借りれば、まともでない経済学者があたかも物欲と利己主義を反映したことを達成することが素晴らしいことだと勝手に思い始めた節は確かにあります。 我々もそれに陥っている可能性は十分あります。 実は市場のメカニズムというのはそういうものです。 しかし、例えば市場で競争させると悪くて能率の悪いものは排他されるわけですから、市場の競争というのはやはり素晴らしいものだと私は思います。 

 


 


対談の様子2

西村氏

 

小麦とコメの例がわかりやすいですね。 放っておいたらどんどん若い子がパンを食べるので、例えば政治家が小麦には税金をつけてコメには補助金をやったほうが、この国はもっと文化的な伝統を守ることができると考えたとき、篠原さんはそれがよくないというわけです。 市場というのは、そういう余計なことをしたらよくないというわけですよ。 個人主義でコメが欲しい人はコメを食べ、パンが欲しい人はパンを食べ、それぞれがそれぞれに応じて食べたらいいという社会は、実際はどうかというのは別として、基本的にヨーロッパの発想だと思います。 しかし、日本では、「皆さんどう思います。 おコメのほうがいいと思いませんか」といったら、「そうや、コメを保障しようや」といったから、それをやってきたわけです。 結果的に成功しなかったから、これだけコメの消費が減っているわけですが。 私がいったのは、個人主義と日本は少し違うところがあるのではないかということなのです。 

 

篠原氏

 

それはね、次にお話しする公正ということと関係しているかもしれません。 もうひとつは、効用関数に影響を与えているのです。 そこのところは、別の問題でしょ。 市場のメカニズムがどうやって動いているかは。 

 

西村氏

 

だから、切り離せないのではないのですか。 

 

篠原氏

 

それは、結果がそこに依存するわけですから、当然切り離せません。 しかし、市場のメカニズムそのものが悪くないということは、それとは無関係だと思います。 

 

西村氏

 

私がさっき問題提起した話はちょっと違っていて、一人ひとりが少欲知足で、それを欧米的な発想であれば、どうぞそういう人はご自由にと。 欲望を肥大化してモノが欲しい人はがんばって働いて、たくさんモノを消費しなさい、ということが市場の考え方です。 しかし、日本の社会ではもう一歩進めたいと思うのです。 

 

篠原氏

 

それは、私は違った考えを持っていますので、最後に話をしたいと思います。 実は、私どもが学んだ大学は、ずいぶんと社会の見方が違う考え方をする経済学者で構成されていました。 私の学んだ大学は市場原理主義者の巣と世間から言われています。 ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、ミルトン・フリ―ドマンが代表でした。 そこでは、とりあえず、「市場」、」市場」と唱えておけば誰も反対しないところです。 市場ではうまくいかないと発言した途端に全員から袋叩きにあうような極めて変わったスクールなのです。 そういうところで育った学生ですので、全部市場と思っているわけではないのですが、市場の優れた点を十分評価すべきだと思っています。 

 

ただ、先ほど、考え方の基準に効率と公正というふたつの概念があると申し上げました。 市場のすぐれた機能と市場のメカニズムが公正であるかどうかは別問題です。 特に中学生に公正について教えるときに、次のことに気を付けてくださいと先生方に申し上げています。 通常は、公正といえば、出てきた結果が一部の人だけが利益を得ていないか、といった配分の結果に目が行きがちですが、それもさることながら、モノを決めたり、市場の取引に参加するときに公正な条件が整っているのかということが大事です。 たとえば、コネがないと就職できないとか、政治家に頼めば予算がつく、といった類の条件です。 

 

実際の経済のモノの決め方、価格の決め方というのは、かなり民主的に行われているわけですが、ひとり一票ではなくて、一票の重みはどれだけ所得を持っているかという条件を反映します。 そういう意味で、参加する条件と、決め方と、決めた後に出てくる結果とこの3つの側面から、公正ということを判断して、それがいかがわしければそこに介入しなければいけないのです。 それは、西村先生が盛んにおっしゃったブータンのようなこともあるでしょうし、いろんなことを勘案しなければいけないのですが、ならばそれをどうしたらいいのか一言で定義しなさいということになると、なかなか難しいのです。 英語ではfairといいますけれども、fairというほどunfairな概念はない。 そういうあいまいな概念ですが、社会的にみんなに認められたようなそういう基準をみんなで到達するしかないというのが、私どもの考え方です。 

 

しかし、経済学者はそういうことを考えたうえで、まず社会全体の効率を最大限引き出して、そのうえで経済活動の成果を人々に公正に配分することを考えでいます。 なぜなら、最初から公正ということを持ち込んでくると、かなり不効率になることが多いのです。 

 

もうひとつは、不公正を正そうとすると、別の不公正を生み出してしまう可能性が高い可能性があります。 例えば、子どもたちによく出す例なのですけれども、低所得の人の暮らしを守ろうとして最低賃金法を設けています。 最低賃金は、地域によって異なりますが、平均でだいたい時間当たり700円。 それを鳩山総理はフランス並みのほぼ1000円に引き上げると言われました。 話をわかりやすくするために、その額をかりに2000円だとしてみましょう。 すると、これまで700円で働いていた人の時給が2000円になるわけですから、その人たちを助けたことになります。 しかし、では本当に低所得者がすべて助かるかどうか、子どもたちに考えてもらいます。 企業からすると賃金が高くなるわけですから当然雇う人間を減らす、あるいは事業を縮小するか、人減らしをして機械にとってかえるか、何か別の方法を考えて雇用を減らします。 前に700円で働けていた人たちが最低賃金が2000円になったために首になる人が出てくるわけです。 もちろん、その人がほかの産業ですぐに就職できればいいのですが、もしそうでなかった場合、前は700円くらいの人と所得の高い人たちの格差の問題だったのが、今度はその格差に加えて、700円くらいの人が0円になる人と2000円になる人が出てくるのです。 だから経済学はこういうことをきちっと分析をして、最低賃金をいくらにすると何人くらい失業が出て、そのうち何人くらい困難に陥る人がいるか、きちっと分析していくらにするか決めていかなければいけないと説いていくのです。 

 

ですから、その時に市場の競争ということを考えなければいけないわけで、これを無視してただ単に人為的に介入することはあまり好ましいことではないと考えています。 ただし、市場のメカニズムをうまく動かすには、当然のことながら、ルールが必要です。 それを、経済学者はあまり強調してきませんでした。 それは、ルールはあるものだということを、経済学の前提にしていたからであると思いますが、ここ何年の間に伊勢の餅屋さんに始まって大阪の料亭から北海道の食肉業者などいろんな問題があったことからわかるように、取引をするときのルールが必要で、それを整備する必要があります。 

 

市場には公正やルール整備が必要ですが、経済教育を行っていると市場に否定的な意見もあります。 それは教科書も同様です。 市場のことを嫌う著者が書いた教科書の例ですが、広告を例にとると、広告に騙されるなと、広告につられていらないものは買うなと、広告に騙された時にはこういうところに行けと、そういったことが書いてあるわけです。 確かにそれはそれで必要な知識ですが、実際には広告を見て皆さんが買い物をしたり、商品を選んだりしているわけですから、広告は十分によい役割を果たしているのです。 

 


対談の様子3

広告に関して私は情報の非対称性という概念が非常に重要です。 通常は品物の作り手は、品物の品質や使い方や利便性などを含めて熟知していますが、買う方にはそれが簡単にはわからないものです。 ですから、何の情報もなければ、どこの品物をいくらで買ったらよいか、判断できません。 それを教えるのが広告です。 ですから、広告があるから市場の取引が円滑に、なおかつ我々にとって有利に進んでいるという面があるわけです。 しかしながら、情報の非対称性を悪用して、中にはけしからぬことをする業者がでてきます。 それを取り締まったり、被害を受けた時の対応を政府がルールを決めたり、公正取引委員会のような機関があるのだと教えてほしいと申し上げています。 しかし学校の先生方には、市場は効率、政府は公正と思っていらっしゃる方が多く、これがなかなか難しいのです。 なぜそのように思うのか私には理解できないのですが、実は、市場はおおむね公正で、おおむね不正があるのは政府ですと、先生方にいつも申し上げています。 

 

西村氏

 

おっしゃる通り、政府はろくなことをしません。 「企業は悪いことをするが、政府は悪いことしない」という考えがかなり支配的です。 そういう考え方の中学高校の先生がたくさんいると思います。 しかし、広告というのは、今日の話題から言うと功罪があります。 つまり、僕らの欲望を肥大化させるという機能も果たしています。 強制的に広告されたら買わなければいけないというわけではないので、もちろん誇大広告さえしなかったらいいということになるのですが、欲望の肥大化の面について経済ではいわないのです。 両方の面があるので、私は広告がいけないとはいいません。 しかし、それによって私たちの欲望が左右されるわけですから選択する仕組みを私たちで作りませんかというのが提案です。 実はブータンは、割とそういうことをやっているのです。 

 

篠原氏

 

それも含めて僕は、効用関数の問題だと思います。 

 

西村氏

 

ちょっと専門的な話ですが、効用関数という考え方は、一人ひとりの個人の判断が最終的にあらゆる社会の決定の基礎にあるということですから、実は個人主義なのです。 個人の考えを変えるのは経済の仕組みと別にやらなければいけないというのが経済学のこれまでの考え方です。 しかし、経済活動である広告は私たちの判断に影響を及ぼすわけですから選択する仕組みを考えていく時期だと思います。 それを強制的にしないで、ゆるやかにそういうことをみんなで考えていくというのが大事だと言いたかったのです。 

 

篠原氏

 

おっしゃる通りです。 何の異論もありません。 私のいいたかったことは、とにかく実態は世界のどこの国をとっても、市場はおおむね公正、政府はおおむね不公正ということです。 

 

満足感について、経済学者は個人主義の中にあると考えていました。 同時に、物欲と利己主義を反映するカタチの満足感になっているため、したがってそれを追及していくと、市場のメカニズムはどうしても成長の思考になっていくことになります。 これは仕方がないことです。 しかし、我々の満足感が、利己心ではなくて、利他心、少欲知足を反映するような満足感になってさえいれば、今度はそれを反映して市場が価格を決めて、そこに向かって資源が移っていくはずです。 したがって市場のメカニズムに任せておけば、おおむね西村先生のおっしゃるようなことになるのではないだろうかと思います。 

 

ただし、そのときにひとりふたりがそういったことを思っても駄目なのです。 先ほどブータンは顔が見えてという話をされていました。 それはよくわかるのですが、市場原理のところへ無理やりその話を持ってくれば、小さな国でよそと貿易をしないカタチであれば、そういうことをかなり実現できるでしょうが、実際にはなかなか難しい。 本当は、市場全体で、世界中の人たちの満足感が変わってくれないと、なかなかそうはならないということがいいたいのです。 

 

ただ、日本人の物欲というのはずいぶん変わってきたとは思います。 私はしばしば中国に行くのですが、彼らを見ていると、かつて日本だってあそこまでではなかっただろうと思うほど、猛烈な物欲で、猛烈な利己心で、政府は乱暴で、人民の満足感だけではなくて、国家の満足まで全部市場に入り込んでくるわけです。 それに比べると日本はまだまだ捨てたものではないと思います。 

 

私の申し上げたいことは、とりあえず市場は捨てたものではないということと、知足の満足感をみんなが持てれば、市場がそこへ誘導してくれるということです。 一人ひとりではだめで、社会がそういう風に動かせる仕組みがどうすればいいのかといえば、私たちが考えられる一番簡単な方法は、みんなの満足感が変わる、そうすれば市場がそれを勝手に持って行ってくれると私は考えます。 

 

西村氏

 

今の話は、いっぱい異論があるのですが、皆さんからご質問を受ける中で申し上げたいと思います。 篠原さんは実は国際経済学が専門なので、ひとつだけ篠原さんの意見を聞いておきたいことがあります。 この会は、日本が独自に持っている、持ってきた倫理観・価値観が消えつつあるという危機感を持っていると思います。 これは私の意見ですが、そのひとつはやはり利己心とか物欲とかいうものがベースにあると思います。 世界のグローバル化は、文化的な交流や政治的な交流に比べて、経済だけが先行してグローバル化したと考えますが、それによっていろいろ不都合なことが起きているように思いますが、それに対する篠原さんの意見を聞かせてください。 

 

篠原氏

 

これは話す場所によって違います。 基本的に市場のメカニズムというのは先ほど申し上げたようにそのままでは動くものではなくて、いろんなルールが必要です。 ルールが違うところが同時にグローバル化するものですから、いろんなぎくしゃくした問題が当然起こってきます。 解決できれば当然分業と交換の範囲が広がるわけですから、それを世界に広げるというのは当たり前の話で、世界にとっていいことだと思います。 ただし、先ほど申し上げましたように、理想のカタチで市場のメカニズムが動いているわけではないので、例えば中国のようなケースで国家資本主義が出て、先日の新幹線の技術のような問題も出てくると思います。 

 

もっと深刻な問題は、制度が違うために、そこで不公正なことがかなり起こっていることです。 同時に国内のケースでもありますが、自由な競争に任せておくと勝者と敗者が出てくると一般に批判されることではあります。 企業の場合、雇われる場合にも勝者と敗者が出てくるわけですが、そのときに経済学で理想的に考えているのは、首になったらほかの仕事があるという状態です。 他の産業に移っていくことを前提条件にしているのです。 それが実現されるためには、ある程度の時間が必要で、もちろんそのためにはコストもかかります。 そこの調整のメカニズムについて経済学者は結構弱いというか、うまく説明ができていないところがあると思います。 それがグローバル化を批判する人との論点だと思います。 

 


堀場雅夫氏(堀場製作所最高顧問)

堀場 雅夫氏 (堀場製作所最高顧問)

 

いろんな話を聞いたのですが、経済学者としてどの程度社会的責任というものを感じているのですか。 産業革命以後、どんどん資本主義が進んで、近代西洋文明といえば、近代資本主義と科学技術の進歩の両輪といえるでしょう。 日本も明治維新で大きな恩恵を受けたし、特に戦後日本は、近代西洋文明を最も謳歌した国の一つだと思います。 3.11以降人々の思考が変化したというけれど、社会変革の引き金みたいには僕はとらないです。 20世紀の末からこういう限界の症状ははっきり出てきて、21世紀に入った時には相当症状が悪化してきているわけです。 

 

例えば金融について、金融工学とえらく特殊なことをいうけれど、全く付加価値がないのに、金を動かして儲けるなんて、これは金融詐欺です。 こういうことを経済学者としてどの程度の良心を持ち、そしてどの程度警告を発したのでしょうか。 ふたこと目には企業の社会的責任といわれるけれども、学者の社会的責任というのはなんだというのを僕は知りたいのです。 

 

放射線の話が少し出ましたけれども、私は長崎・広島のとき、京大の原子核物理の学生として数日後に現地に行きました。 線量など全部測りましたし、被曝の程度や遺伝についても調べています。 京都大学はデータを持っているのです。 なんで公表しないのか。 それでインチキ学者がいっぱいがたがたいっている。 こんな人間を置いておいて、いったい学者というのはなにをしているのだといいたい。 

 

ただ、西村さんはいいことをいったのは、わからないことに耐える力。 私の現在までの成長の大本は、わからないことが世の中に多すぎることです。 80歳になってそれが高じまして、80歳になって初めて命が惜しくなりました。 これだけわからないことがいっぱいあるのだから、ちょっとでもわかってから死にたい。 ですから、わからないことを我慢する力というのをもっとあらゆるところでやってほしいなというのが、お願いと嫌がらせです。 

 

篠原氏

 

第一に原子力の学者と一緒にしてほしくはないです。 それは別にして、経済学もわかっていないことがほとんどです。 何年か前に、経済政策と経済学の在り方についてというような鼎談で、僕は経済学は余りあてにしないほうがいいのではないかと申し上げました。 その証拠に1980年の時点で90年に日本がバブルになっていることや、90年の時点の時に10年後にデフレになっていることに誰もわからなかったからです。 それを念頭に置いて経済政策を考えないといけないと思います。 ただし、何か起こったときに同じことが次に起こらないように考えるなどまじめではあるのです。 小さいところでは結構役に立っていると思います。 

 

西村氏

 

今日はお見えになっていないですが、中野東禅先生にレジュメを送ったら大変いいコメントをいただきました。 「仏教は愚者を自覚する智慧の宗教です(キリストも同じことを言っていますが)」と書いてありました。 ただし、誤解されてはいけないのでいっておくと、でもやってみなさいということなのです。 堀場さんが今おっしゃった話はとても大事で、80歳になっても90歳になってもなんか知りたいという気持ちは忘れてはいけないということは同じことです。 

 

経済学について社会科学は大きいことを言いすぎたように思います。 大きいことを言うのは宗教家に私は任せたいのです。 これが堀場さんに対する答えになると思いますが、日本の学問は地に足がついた学問ではなかったように思います。 輸入してきて地に足がつかないままやってきた。 私としては、自分の身近なところから、頭で考えてこういう問題はわからないけどどうしたらいいかというところから発想して、問題を考えていくということをやりたいと思っています。 

 

責任といわれたら、当たり前ですが、学者も社会を形成しているわけですから、私は経済学者全体として責任は感じるべきですが、個人としてはあまり感じてはおりません。 

 

堀場氏

 

僕は本当に学者の社会的責任と言うのは、何にあるのかを知りたい。 宗教家にも同じこと思っています。 宗教家が社会的責任をどこまで感じているのかということを知りたい。 これは医療についても同様です。 

 

もちろん企業も最も大きい人との接点になりますから、そこで先生がおっしゃったように、税金からとるのは賛成なのです。 ただし、法人税というのは利益がなかったら、一銭も税金を払わなくてよいのです。 企業で利益を出すことがいけないというけれど、企業で利益を出していないということは社会的に還元していないことになります。 しかし、道路も鉄道も通信も全部使っているのですから、これはもうただ乗りです。 利益を出していないところは社会的責務を果たしていないというふうに経済学者はいうべきなのに、利益を出しても悪くはないですよと中途半端な発言をして、本当にどう思っているんだと僕はいいたいです。 

 

西村氏

 

その前までは全部賛成ですが、最後の話だけ異論があります。 従業員に給料を払っていることがえらいという発想からはぬけ出したほうがいいと思います。 従業員を雇って、赤字でも給料を払っている会社がたくさんあるわけですよ。 それはそれなりにえらいということです。 

 

堀場氏

 

雇用をしているからえらいということだと思いますが、給料を払っているのがえらいといわれるのなら、企業とはなんだと思っていらっしゃるのですか。 

 

西村氏

 

今は日本全体で利益を出すことができる企業が圧倒的に減っている時代で、相当頑張ってもなかなか利益を上げられる企業は出てこない状態です。 この際あきらめて、税金は払わなくてもいいから、最低賃金を払うということで、許してやってくれということをいっているのです。 

 

 

■意見交換

 

長谷川

 

次はご出席いただいた皆さん方に、おふたりの先ほどの話を受けて、意見交換をしながら、もう少し今日のテーマである「知足と経済学」、知足と経済を中心とした社会のルールや社会の在り方みたいなところに話を深めていきたいと思います。 

 

まず京都経済同友会の代表幹事の田辺さんにお願いします。 田辺さんは、ハピネス特別委員会を発足させ、先ほどブータンの話がありましたが、幸福をどうとらえていくのかを研究しようとされています。 

 


田辺親男氏(京都経済同友会代表幹事)

田辺 親男氏 (京都経済同友会代表幹事)

 

長谷川さんからご指名をいただいたということは、難しい話から分かりやすい話にかえろということだと思います。 私は経済同友会でハピネス委員会をやっておりまして、今日は今のお話を受けて、3点のことを問題提起的なこととしてお聞きしたいと思います。 

 

1点は、先ほど西村先生が言われたのですが、「日本の経済はもう成長しなくてもいいじゃないか。 このままで雇用を守っていたらそれで社会貢献をしているのだ。 あまり伸びないのではないか」というお考えがありましたが、ぼくは日本は経済成長を果たさないとこれだけの民を幸せなカタチで暮らしていくというのはなかなか不可能だと思います。 現在、国民の平均所得がずいぶん減ってきて460万あたりになっていると思うのですが、ここに閉塞感があり、国民に対する圧迫感になっているのではないでしょうか。 

 

2点目は、我々国民の側からみてライフサイクルが本当に変わってきました。 ひとつは女性の就業が徐々にではありますが欧米フランス型になってきています。 このなかでどういう風に知足と生活としての経済を満足させていくかということに、やはり私は市場経済も含めて経済発展という言い方をするとまた皆さんから批判を受けるかもわかりませんが、経済成長は必要なものではないかという考えを持っています。 

 

3点目は、日本の社会を覆っている嫉妬です。 あらゆる階層にある、あらゆる心にある嫉妬というものを経済学的に解決することが、経済学者に求められているのではないかと思います。 もちろんこれは、なかなか経済学者だけの範疇に入るものではないとは十分承知しますが。 以前、我々経済同友会で台湾に行ったとき、李登輝さんから1時間半ほどお話を聞く機会がありました。 また別の機会ですが元USTRの日本部長で現在のアフラックの会長のレイクさんが対談をされておりました。 2人の外国人は新渡戸稲造の武士道の考え方を持ってきて、「日本人は古来より、節度ある自分を律することをしてきた。 こういう精神というものもう一度立ち返るべきではないか」と、指摘をしました。 我々が持っていた精神的な規範というものをもう一度確立することが、我々にとって生活をよりよくする、と同時に幸福感を増す要因になるのではないかと個人的に思っています。 その3点についてお話を承れればと思います。 

 

西村氏

 

利益を出すことは決して悪いことではないというのが一貫した考えです。 それができない時代が来ているのでせめて雇用ができたら許してやってよという言い方をしました。 ですから私は成長がいかんとはいっていません。 むしろ、やっぱり成長しないとだめで、ただ成長の中身が相当変わるでしょう。 今までのようにモノがあふれて、エネルギーをたくさん使って成長するということではなく、別の意味の成長でしようという意味です。 

 

先ほどブータンの話をしましたが、いろんな成長の仕方があると思っております。 例えば、知恵に対してお金を払う。 賢い人にお金を払う。 あるいは創造性についてもお金を払う。 僕らが考えもつかないことをすることをやったとき、僕らはもうちょっと様子を見ようと許容する社会がどうでしょうというのが私の提案なのです。 

 


対談の様子4

堀場さんの本の「いやならやめろ」という本を読みましたが、タイトルだけ見たらひどい経営者だとみんなびっくりしますよ。 しかし、大先輩に対してこんな表現は悪いのですが、そこが好きなのです。 つまり、いいとか悪いとかではなくて、こういう人おもろいよという気持ちが大切なのだと思います。 しかし現実的には閉塞感がある社会で、よけいそういうことに対していろいろと言われるように思います。 それが嫉妬の話と関係していると思います。 ただ、嫉妬の話は社会全体の話ですから、経済学者だけにいわれてもそれは困ります。 もちろん経済学者も一緒になって、社会全体で「これは嫉妬ではないだろう」ということは必要です。 一方で人が何をしていようが私は知らないし、私は貧しい暮らしで十分満足だからという個人主義というものがあります。 そのように思う気持ちを社会全体で作ることも大切だと私は思います。 

 

武士道の話ですが、私は貧乏人の普通の庶民の子だものですから、武士道はかっこいいなと思いますが、武士道なんて持っていた人間は江戸時代、日本の人口の何%くらいいたのかと言う風に感じるのです。 もちろん、特に官僚なんか武士道を持ってほしいと思います。 一方で私は普通の庶民は、もっともっとおもろいことないかということに一生懸命努力したほうがいいのではないかと思います。 

 

篠原氏

 

ほとんど付け加えることはありませんが、嫉妬に関しては実は猪木武徳先生(国際日本文化研究センター所長)がおっしゃっていて、これはかなり大きな社会の問題だと、ずいぶん前から指摘されています。 しかし、それをどうするかということは誰もよくわからない。 やはり、客観的に見ていてアメリカ人は個人主義といいましたが、どちらかというと嫉妬が少ないのです。 日本よりはるかに少ないと思います。 

 

もうひとつ、今の西村先生の話と関係があるのですが、最後にどう変えていくかというところで、西村さんがいわれた先義後利からはじまって先賢後利、先創後利、これは基本的に経済の原則とあっています。 ただし、社会としてこんなこと全員ができる必要はないと思います。 よく最近、スパイキーなことが大切だと言われますが、ごく一部の人がスパイキーであればよく、そのほかの人は普通でいいわけで、その意味で普通の人たちが楽しく暮らせる、そういう仕組みを作っていくことが大切だと思います。 

 


佐藤泰子氏(京都大学大学院非常勤講師)

佐藤 泰子氏 (京都大学大学院非常勤講師)

 

せっかくお寺で知足と経済という、ちょっと矛盾する、ジレンマのあるような課題を出して議論しているので、そこの話を聞かせてもらいたいと思っています。 

 

ジレンマを感じながらお話を聞いていたのですが、経済そのものを支えてきたものは人間なのだろうかと、ずっと考えていました。 その欲望は、あれが欲しい、それが欲しいと思っていても、実は他者の欲望なのだと思うのです。 例えば、ロールスロイスを誰も持っていない時に、ひとりだけロールスロイスに乗って人に見せつけたいというような思いがもしあったとしたら、それはやはり他者の欲望を反映した自己の欲望であると考えられると思います。 そこにある種のジレンマを感じてくるのは、「みんなが持っている、自分が持っている、他人が持っている」ということと、知足ということに大きなギャップがあるからであると思いました。 

 

私は「いらない」といえる勇気が大切だと、西村先生のお話を聞いていて理解しました。 そこが間違っていないかコメントをいただきたいです。 それと篠原先生が、私の満足、人間の満足とはいわずに人々の満足とおっしゃったのですが、そうすると社会全体の価値観だとか、有効性であるとかということを全体で考えないといけないということだと思いました。 経済とはひとつの怪物だというイメージが私にはあるのですが、だれにも読めない怪物というものを扱っている以上、人ということと社会ということと同時にお話ししていただけるとありがたいと思います。 

 

西村氏

 

私はいらないという勇気を持とうというのもひとつですが、もうちょっと突っ込んでいいたかったのは、私はいらないけれど、あなたもいらないと思うような影響力をどういう風に上手に発揮できるかを一緒に考えましょうということでした。 同時に私は先ほど先義後利や先創後利という話をしたのですが、例えば、自動車を作った人は、自分が乗りたいという自分の欲望がスタートだと思いませんか。 これに乗ってみんなに見せたら面白いだろうと一生懸命考えたって、自動車の開発にはおそらく成功していないと思います。 やはり人間は内発的に面白いと思い、やりたい、作りたいと感じるのだと思います。 それはやはり尊重すべきだと思います。 私はわかりませんが、ひょっとしたら仏教で言ったら「業」かもしれません。 人間がいろんなものを作って、人に売ったりということ全てを否定する社会は息苦しい社会で、それはやめてほしいというのが最後の私のメッセージです。 

 

篠原氏

 

それに補足すると、経済学に近い話になってしまいますが、実はみんなが持っているから欲しいという欲望も確かにあることはあるし、経済学者はあまりそういうことを考えてきませんでした。 経済学の取り組みはあくまで個人主義で、他人のことは全く関係ないと、自分のことだけと規定して考えてきたわけですけれども、今おっしゃったようなことももちろんあります。 しかし、逆にほかの人が持ってないから自分が持つのをやめようというパターンだってありうるはずなのです。 

 

例えば最近、若い人が自動車を持たなくなっています。 あれなんか明らかに今おっしゃったことの逆のパターンで、知足ということを考えるときに、そういうことが上手に転がり込めばうまくいくと思うのです。 私は満足感の関数のことをずいぶんいいましたが、田辺さんが主催されている経済同友会ハピネス委員会で満足感の調査みたいなことをしているのです。 それの予備調査を見ていて面白いと思ったのですが、所有をするということと共有をするということに対して、どちらが幸せだと思うか、そういうアンケートをすると、震災の前と後でずいぶん結果が違っていました。 震災後は共有を重視する傾向が見られたわけです。 西村さんの言葉を使えば明らかに内面的に持たないことが出てきているのではないでしょうか。 そういうことを、仕組みとして経済の中からそういうことをなんとかしたいとおっしゃった。 かなり難しいかもしれないけれど、そういうことを考えていくべきだと思います。 

 

高木 壽一氏 (元京都市副市長)

 

先ほどから個人主義の問題や民主主義などいろんなルールの問題があると聞いていましたが、民主主義というのは、カタチの上では日本にあったらいいと思うのですが、実際にこの国で実現するのは難しいというかありえないと思うのです。 民主主義で定着しているのは多数決という原理だけで、本来は多数を獲得するためにしっかりしたロジックのあるスピーチをして、それに基づいて大いに論戦をやって、多数を取った意見が通っていくというものです。 しかし、日本では全然違うルールによって決められていくのです。 逆らいにくいように利害に関係があることをいって回ってなんとかしてなということになるわけです。 ほとんど話はロジカルなものではなくて情緒的なもので決めていくみたいなことになります。 

 

そういうことから考えると、ここにいる人たち、特に堀場さんなんかはロジックという点ですごく例外的なのです。 ここにお集まりのような人というのは、あまりたくさんおられないので、日本人は付和雷同が得意なのです。 個人主義だとかできないようなことをいっていても、ここで知足というようなことを考えるのであれば、ここに集まっている皆さん方が付和雷同の基になって、こういう方向に行ったらいいのかとみんなが思うようなことを考え、そのことを実行する以外にはないように思います。 みんながそちらについてくるような付和雷同を起こすもとを、こういう場で宗教者の方々と学者の方々が知恵を集めてできないことにはなかなか変わらないと思うのです。 足るを知ったら何が面白いのだということを、うまく盛り上げて知らせていくようなことを、宗教者の方々を含めて我々がやることではないかなと思うのですがいかがでしょうか。 

 

篠原氏

 

全くその通りだと思います。 小さなエピソードでありましたが、私の広告の話に対して、西村さんはそういうことをおっしゃろうとされていたのではないかなと思います。 ちなみに民主主義の中で多数決原理が定着したといわれていましたが、多数決というのはよく考えてみると何も決まらないのです。 みんなが同じ情報を持って、みんなが利得だけ追及していたら、永遠にあんなものは決まらないシステムだと思います。 多数決というのは付和雷同で決まっているということです。 

 

西村氏

 

高木さんの話で、「面白い」というのは大事なキーワードだと思うのです。 知足が面白いというアイディアが大事だと思います。 その時に、「おもろいで」という話を、お坊さんにいろいろ教えてほしい。 それは僕らはあまり仏教を勉強していないから、今になって昔の言葉を聞いたら、こんないい言葉があったのかと本当に勉強になります。 

 

大野 三恵子氏 (平等院)

 

先ほど篠原先生がおっしゃった経済の効率と公正について、まさに公正や正義、そのことが社会的責任と同時に人間を本質的にとらえていることだと思うのです。 日本人が、たぶん行政が宗教をシャットアウトしたところからも閉塞感が来ていると思いますし、精神世界を、宗教者が連合を作っていただいて、希望を何か国民に示してほしいです。 効率を上げる経済が半分、私も幸せになる、隣人も幸せになる思想を半分、ぜひバランスを作っていただきたいと思っています。 

 

宮城氏

 

今日は宗教界からイメージを、宗教界からメッセージをという意見が多分に出ていました。 坊さんは死ぬまで現役でリタイヤしないですし、どうしても教義教学の中で生きているのもあって、好きなことをいうとはなかなかならないのです。 

 

今日のお話を聞きながら私が思ったのは、宗教家だけの問題ではなくて、日本人が皆持たなければならないという、同時、同じ時ということ。 つまり、中国の新幹線が衝突したときに、遺族の痛みに日本人はどう感じたか、それ見たことかということで見たのか、かわいそうにと尼崎での脱線事故に重ねあわせて惻隠の想いを持ったのかどうかという、同時というものの見方というのは、宗教者の基本にあるものだということを思うのです。 西村先生の3点目にブータンの幸福論のことをお示しになったのですけれども、まさに私たちは、回り巡ってまた自分たちにも戻ってくる、近いところで自分も戻ってくる、遠いところでは何万年か先に戻ってくる、そういう輪廻というものがもう少し考えなければなと思います。 

 

私もブータンに行きまして、毎日半日くらい森林の中歩きました。 森の中にあるところの命、いろんな動物が、またそこで生まれてくる水や育ってくる木が、お互いに助け合って生きているので、自分たちもその助け合っている一員なのですということをわれわれのガイドをしてくれた現地の人が、こともなげに言うのです。 それは華厳の教えの中にある帝釈天の宝石網に通じるように思います。 ようするにネットの目が絡み合っているところにいろんな石がはまっている。 いろんな石がくっついていて、隣の石の色合いを受けて自分も光らせてもらっている。 自分の光を隣の石に与えている。 だから、ネットの中にあるひとつの世界というのは、端から端まで光線の輝きが及んでいるし、自分も他の光を受けて輝いているというものなのです。 

 

華厳は、一切すべてひとつの大きな世界であり、その中の自分は一切を持っているのだと言いますが、今度の東日本大震災の中で、私たちが持っていかなければならない教えなのではないかと思います。 遠く離れていても、京都にいる我々も、被災地の光を受けながら、また我々もその思いを、先ほど言いました同時という世界の中で、発揮していく。 これは経済の問題ではないと思います。 しかし、生き方というのは霞を食って生きているわけではありませんし、そういう中で、いささかなりとも人間は経済の恩恵にあずからずに生きているわけにはまいりません。 

 

今日の話は非常に高等な、坊さんにしてみたらちんぷんかんぷんのところがあったかもしれませんけれども、非常に難しい経済の世界、複雑な構造の中でではなく、単純に考えていくとそうした華厳の教え、あるいは同じ目線、同じ世界に立つという思いに至りました。 その思いが坊さんに必要なのではなくて、坊さんがそれを発信して、社会に同じ思いを問い続けなければ、そして、同じ思いを作っていかなければならないなと思いました。 

 

篠原氏

 

最後に、実はこれは経済教育をするときに、西村先生のお弟子さんだった先生に作っていただいた教材があります。 マンションの耐震工事をモデルにして、全員で耐震工事に出資すれば多額のお金が集まるからきちっとした工事ができるけれども、ひとりくらい抜けてもほかの人が全部出したりすれば自分はただ乗りした方が得だというゲームになっているものです。 その結果、全員がただ乗りを決め込むと、耐震工事はゼロ、ですから地震がきたら大変な被害が出てしまう。 このような結果を見せた後で、だからみんな自分のことだけ考えていると結局みんなが損をしてしまう、だからみんなで協力して出し合ったほうがいいんだということを教える目的を持って、いろんな実験をしてみました。 大学生の場合は、ほとんど経済学者が考えているように利己主義の答えを出してくるのですが、中学生の場合は、顔が見える範囲で実験してみると、はじめからお互いに協力するのですが、顔が見えないようにして全く独立してゲームをさせると、やっぱり利己主義になるのです。 これはとても面白い実験で、なるほどと思って、大人にもやってみようと思っています。 多分おっしゃるような、知足ということも含めて、それが社会の中でうまく伝播するヒントになるように思います。 それをどうやって顔が見えないところまで広げるかということを考えてみたらいいのではないかなと思います。 

 

長谷川

 

医療と宗教を考える研究会では、今回知足と経済学という一見相矛盾するテーマを取り上げてみましたがいかがでしたでしょうか。 清水寺でこのテーマを取り上げたことは、後々語り継がれるのではないかとさえ思ってきました。 これまでの日本人が大切にしてきた、しかし我々が忘れてきているような知足という考え方を、経済活動と絡めながら思い起こし理解を深める機会をいただきました。 西村先生、篠原先生、長時間有難うございました。 

 

社会全体の幸せのためにこの知足の考えをどう伝え行動に移していくか、そのリーダーとして宗教界の役割は益々大きくなりました。 高木さんからも、動かないとだめだというご意見をいただきましたので、開設したばかりのホームページなども活用していただきながら意見交換をし、広めていきたいと思います。 

 

 


 

 

 

 

 

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